シェアハウス・ロック0620

江戸時代のエアポケット

 慶長6年(1601年、関ヶ原の戦いの翌年)から慶応3年(1867年、大政奉還の年)までの267年間で、江戸では49回大火と呼んでいい火事が発生している。同じ期間で見ると、京都が9回、大阪が6回、金沢が3回であり、江戸の多さが突出していることがわかる。
 この程度は知っていた。私は現在のことはよくわからないが、江戸時代のことは割合詳しいのである。万が一、江戸時代にタイムスリップしても、それなりにやっていけると思う。
 さて、『明暦の大火』(黒木喬、講談社現代新書)を読了した。古本市で3冊100円で買った本だったし、あんまり期待していなかった本だし(だいたい黒木さんのお名前すらも、私は存じあげなかった)、まあせっかく買ったんだから読んでみるかな程度のことで読み始めたわけである。
 おもしろかった。おもしろかった理由はいくつかある。
 まず、黒木さんは「柴垣節」という薄気味悪い歌の流行から、『明暦の大火』を書き起こし、「地獄染め」というこれまた薄気味悪い着物の流行につなげ、寛永の大飢饉に至る。これが、『明暦の大火』に至る背景である。
 要するに幕藩体制の屋台骨が下部構造から揺らいでおり、世情は不穏、それが前述の風潮を生み出した。それを抑えるために田畑永代売買の禁止が発令され、慶安2年(1649年)の「慶安御触書」に結実する。これは菅義偉の「自助、互助、公助、そして絆」の先駆みたいなもので、「早起きしろ」「田畑の耕作に励め」「晩には縄をなえ」「俵も編め」「酒や茶を買って飲んではいかん」「百姓は思慮分別なく、先のことを考えないので、いつも冬枯れの気持ちで食い物を節約せよ」など、言いたい放題である。
 おもしろかった理由の最大のものは、私が知っている切れ切れの江戸時代のことの、ちょうどエアポケットのようなところを充填してくれる本だったというところにあった。
 また、江戸草創の膨張期の気配を十分に感じさせてくれる本だったことも大きい。そういう本は意外に少ない。
 無役の旗本は年俸を受ける代わりに、石高に応じて小普請の人足を出す義務を負わされていたが、常時人足を確保しておくわけにもいかない。そこに、口入屋稼業が発生する地盤があり、その地盤へ出稼ぎ人が流れ込み、また彼らの一部は口入屋に寄宿し、町奴という、まあヤクザが生まれる素地が形成されたわけである。この町奴のスーパースターが幡随院長兵衛だ。
 旗本のほうでも負けてはいない。水野十郎左衛門が大小神祇組を結成し、町奴と激しく対立した。その他、白鞘組とか、様々な組が生まれた。
 明暦3年(1657年)7月18日、水野は幡随院長兵衛を殺害したが、この件に関してはお咎めなし。水野は旗本だったので、町方の手には余ったのだろう。
 ここまでで、女性の話がひとつも出てこない。要するに、江戸は非常に大きな飯場のような街だったのである。つまり、普請、上水の掘削・整備、寺院の移転による市街地再開発など、急膨張の塊のような街であり、男ばかりの街だったのである。そこで、吉原などの悪所や、それに類する場所の需要が発生する。
 上記、明暦3年が『明暦の大火』(振袖火事)の年である。
 正月18日、19日に山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼、江戸の大半が被災し江戸城天守、本丸、二の丸、三の丸も焼失した。振袖火事は江戸時代最大の被害を出した大火であり、死者は最大10万7000と推計されている。東京大空襲(下町大空襲)が最大で10万と推計されているので、人口を考慮に入れれば、それ以上の規模の災厄であったと言えるだろう。

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