蝿の王子と蛆の姫④

こういうのは苦手だなと思う。
目的がはっきりしないこともそうだが、自分の知らない所で物事が進んでいき、気が付いた時には手遅れになっているのが嫌だった。
現実の世界においては勿論、すべての成り行きを把握しておく事はできないので、ゲームである限りはゴールとそこに至るまでの道筋だけは知っておきたい性分だった。
もしくは、クリア条件とルールが明瞭でなければならないと思う。
この場から動くなというのは、動いて何かを確かめろというフリにも聞こえる。
人生においては、選択肢などなくとも選択をしていかなければなない。
そして、何もしないというのも一つの選択ではある。
「待って、自分の足で診療所に行くよ」
虹坂を呼び止める。
「わかった。じゃあ一緒にいこう」
彼女はなんの躊躇いもなく僕の手をとる。
その手は温かかった。
危険な兆候だった。
いま自分が立っている世界が揺らいでいく。

2022年の7月1日は令和4年。

昭和から平成、そして令和だ。

岸田内閣、ウクライナ侵攻、コロナウイルスのある世界が僕のいるべき世界。

その手に引かれて歩くと模型さながらの古い集落の全景が見渡せた。

蛆姫神社は高台にあって、石段を下れば診療所は目と鼻の先である。

扉のかかっていない入り口には、木の看板がかかっており往診中とある。

「どうしよう、中で待つ?」

「うん、ここで大丈夫。先生がもどるまで待つよ」

「じゃあ、私は行くからちゃんと頭みてもらいなよ」

こんな村の診療所で脳波の検査はできないだろうと思うが、別の意味で僕は自分の頭が正常かどうかを確かめなければならない。

僕は再度、ヘッドギアを手探りでみつけるべく顔から頭にかけて触れようとしてみた。

身体が子供なので、距離感覚がずれている可能性を考え少し遠くまで手を伸ばすが見当たらない。

この手の動きが実際の肉体の手の動きに連動していない可能性を考え、わざと存在しない手を動かそうとしてみたが、うまくいかない。

この手や足や声や感覚のすべてが本物なのかどうかの確証を得たい。

古典的な方法ではあるが、僕は自分の手の甲をつねってみた。

痛い。

だが、この痛みは本物なのか。

違う。

冷静にならなくてはいけない。

路木リュウジの記憶はない。

恋人の誕生日を暗唱してみた。

6月23日だ。

大丈夫。

僕はこの世界のどこかに、たしかに存在している。

「君はたしか」

往診から戻った医師が立っていた。

歩いてきたというよりは、そこに浮かび上がったようにも思えた。

「天道先生ですね」

「いかにも」

「頭を強く打ったみたいで、かなり重症だと自分では思っています」

「ふむ、言語野や運動には影響はなさそうだが」

「はい、恐らく記憶に齟齬が生じているのではないかと思います」

「ちょうど1時間前に君と同じような症状を持つ患者を診てきたところだ」

「え?」

「君は何者なんだね?」

「僕は鈴木です。この街並みは僕が資料を集めて作った村で、実際には存在していない村なんです」

「相当重症だね。けれど、きっとそれが真実なんだろうね」

「否定しないんですか?」

「この村には重大な欠陥がある。もしこの村が自然の営みや歴史の上に積み重ねられてきたとしたら、このような形にはなっていないだろう」

「重大な欠陥?」

「まず、外の村との交易が絶たれていること。村から出る道は山の方にしか続いていない。どこにも繋がっていないのに、薬や物資が調達できるのはおかしい。」

「トンネルから外に出られないのですか?」

「トンネルも吊り橋もない。無くなっているというよりも最初から存在していないように見える」

「けれど、貴方かだがそれに気付いているということは矛盾しませんか。急に存在を否定されて受け入れてしまうなんて」

「そうじゃない。あくまでも、この世界は矛盾しているというだけで我々には何ら問題はないということだ」

「生の実感はあると」

「君の世界だって、神が作った外側の世界からみれば立派な箱庭にすぎない。知覚することができない内側の人間にとっては何も変わらない」

「ではやはり、僕達のほうが異質ということですね」

「我々にとっては、令和なるものがあろうがなかろうが関係ないということだ」

「まったく、信じられない。月給21万じゃ割りに合わない仕事だ」

「頭の整理はできたか?私が診断をくだそう。精神や脳神経に限っていえば君は正常だ。」

「先生が会ったもう一人の患者はどこにいるんですか?」

「蛆姫神社の巫女は恐らく、こちらの人間ではないだろう」

「分かりました。ありがとうございます。」

僕は天道医師に礼を言ってその場を離れた。

僕が視認していない間も、彼らは存在し続けるのだろうか。


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