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#3 世界は美しいということを信じる大人たちへ

羊文学さんの「光るとき」という楽曲の詩で、こんな一節がある。

何回だっていうよ、世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ。

羊文学「光るとき」歌詞より抜粋

僕はこの詩に深く感銘を受けて、自分の写真の目指す姿が、この言葉にあるのかもしれないと思った。

いうまでもなく、この世界は悪辣の限りがひしめき合っている。大人になればなるほど、そんな状況の方が目につくようになる。SNSをひらけば四六時中、誰かが誰かに怒っている。そんな状況に毎日うんざりしては、こんなものを見ている意味などあるんだろうかと、じわじわ疲れていく。

でも、世界は本当にそんなに悪いものだろうか。

仕事が終わったあと、時々そうするようにカメラを持って散歩に出た。日が山並みに隠れて、優しく降り注いでいた美しい日差しはもうない。最近の僕は陽だまりいっぱいの写真を撮るのが好きだ。こんな時間に出かけても良い写真なんて撮れないのじゃないかしらと、散歩に出るのを躊躇した。

でも今週末には登山の予定が控えてるし、先ほどスナックのお菓子も食べたし、いかんいかんと思って相棒のa7Ⅲと一緒に、夕暮れから少し過ぎた田舎へと散歩に出かけたのだ。

確かに暗い。山際には太陽の気配がわずかに残っているだけだ。ふとした時に目を下へ落とした。水が張られて久しい田んぼに、空が映っていた。

そうだった、この季節の田んぼはこんなふうに綺麗だった。近いうちに撮ろうと、仕事から帰るたびに思っていた。それなのに今の今まで忘れていた。

僕は本業がデザイナーだから、人よりもそういった綺麗なものを探す感度は高いと思っている。

それでも、目は曇る。酷い言葉を見て心が重くなる。そうしているうちに夜が来て、この田んぼに映された美しい空を見ずに1日が終わる。この田んぼは、僕が見ているかどうかなんて関係なく、ずっとここにあるのに。

確かに、悪辣なものも美しいものも等しく存在しているんだろう。だけど、1日が終わる時、心に何を残すかは自分で決めることができる。散歩に出かけることを選んだように。

何が言いたいかといえば、罵詈雑言や人を傷つけるようなものより、世界を美しく見ている人たちの心のカケラみたいなもののほうが、実はたくさんあるんじゃないのかということ。美しい写真、優しい言葉、夢や希望みたいもの。そうしたものは、ひっそりとしてあまり主張しない。当たり前のようにそこにある。

だからこそ、カメラを持って、その素敵なものたちを探しに出かける。そんな行いが、「この世界が美しいことを諦めない」という歌詞の姿に、少し重なるなと思った。

子どもが産まれてからずっと、僕は一体どんなものをこの子たちに残せるだろうかと考えている。この世界にはたくさんの不平や不満がある。直さなければならない不具合がとっても多い。だけど、それを生み出してきたのも僕たち自身の選択の結果だ。

何を見て、その1日の終わりに何を残そうとするのか。カメラと一緒にいたら、少しは綺麗なものを残せるのかもしれない。

古ぼけた車の横に咲く、この小さな花が綺麗なことは、今日は僕だけが知っている。この世界が美しいのは、それを諦めない「きみ」のような人がいるからだ。


三重県いなべ市で小さなデザイン事務所「スタジオビーモ」をやっています。今は写真撮影を中心にお仕事をいただきながら、コツコツデザインを作ってます。よかったらWEBサイトもご覧ください。

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