見出し画像

#2 産まれた街から

noteを書き出した理由は、半分は自分自身の人生の今までとこれからの整理の為だ。

僕は今、わりと大きな人生のターニングポイントの渦中にいる。別に何か大きなことが起こったわけでも、誰かとの繋がりが絶たれたわけでもない。所謂、クォーターライフ・クライシスってやつなんだろう。それでも自分なりに仰々しく構えて、こりゃ岐路だぞなんて思って過ごしている。

そんな面倒な僕の性分をのんびり書き連ねる予定のnoteなのだから、さぞかし面倒な文章になるんでないかなと思うので、出来るだけ素敵に撮ったつもりの写真たちを交えながら軽快に悩んでいきたいと思う。

人は人生の岐路に立たされた時、自分が今まで過ごしてきた時間に思いを馳せることが多いと思うが、例外なく僕もそんな時期を過ごしている。僕の故郷は三重県の桑名市という街で、名古屋のお膝元ながら三重県の誇りを失わない素敵でナイスなちょうどいいベットタウンというやつだ。

心底見慣れた街だ、随分変わったけど。

まぁ楽しく子供時代を過ごさせていただいた街なのだ、高校生までは。

半生を語るつもりはないので、よいしょと割愛するが、高校3年生の終わりに、家族の都合で17年間過ごした愛する我が家を離れなければいけないことになる。

そこから約10年ほどの期間、自分の人生と向き合ってひたすらに悩み進み続ける時期を過ごしたわけだが、その頃の悩み癖が今になってもまだ脳にこべりついている。よーく考えないと、お前の大切なものは根こそぎ崩れるぞと、油断するといつも心のどこかでイヤな声が聞こえてくる。

というわけなので、人生の岐路なんだからちゃんと考えないといけないぞ!なんて思いながら、先日ふっとしたタイミングで足が向いたのが、少年時代に幸せに過ごさせてもらった生まれ育った「家」だった。正確にいえば、家だった場所、だ。この産まれた家から、もう一度自分の悩みの根源をなぞってみたくなった。

川と海が交わるこの風景が好きだ
この見晴らしは好きだったはずだが、十数年ぶりに登ったら高くて怖かった。高いところは苦手だ。

何を思ったか突然、「小学校の通学路を歩いてみるか」と思い立って、かつての自宅から小学校までの道のりを歩いてみた。断っておくが、休日なので「現在の小学生たち」とは遭遇していない。僕はただノスタルジーに浸りたかった元小学生であるただの可哀想なおじさんなのだ。

懐かしい通学路を歩いて感じたのは、記憶と比較して、あまりにも全てが小さくて、そして短いということ。よく聞く話だ。

この歩道橋はこんなに小さかったか?実際小さくなってるんじゃないのか?周りに経ったアパートたちのせいで、相対的に小さく見えているのか?

通学路自体も、いやに短く感じて、あっという間に小学校にたどり着いてしまった。遠足の帰り道なんて、それはもう永遠のように感じたものだったが、大人の足ではせいぜい10分そこそこ程度の道のりだった。

たどり着いた小学校は(敷地の外から眺めただけだ)、体育館は新しくなっているし、ところどころ色は変わっているし、遠目でよくわからないけど、多分遊具は減っている。大枠の存在自体は変わっていないものの、そこは確かに、僕が通っていた時から20数年の時間が流れている「もう自分には関係ない場所」だった。

はぁ、なるほど、これが時間というやつね、俺だってついこの間まで小学生だったぜと多少落ち込みつつ、幼少期と現在のスケール感の差をありありと感じていた。思い出の風景を、現在の姿で更新しながら、スナップとして記憶に残していった。

この道にはたくさんの思い出がある
この道は分団登校では通っちゃいけなかった。でもこっちの方が近道なのだ、納得いかない。
僕の時代はこんな丁寧な色分けはなかったね
この青い建物は駄菓子屋さんで、ここの店主のおばさんには随分世話になった、つもりだ。彼女にとっては何百人のうちの一人だろうけど。

歩いていく道の中、誠に勝手ながら、小学生時代の友人の家を何軒か拝見した。驚くことに、幼少期の思い出そのままに建っている家がそれはもうたくさんあったのだ。

鮮明に驚いた。みんなの家は残ってるんだと(自分の家は実質もうないからね)。

そうだよ、そりゃそうだ。一軒家を買われたんだもの、そう簡単に出ていってたまるかいなというものだ。

当然ながら、友人たちにとって、その昔のままの家が今どんな場所なのか、僕は細かく知る由もない。SNS上でさえ連絡してもいないような方々だ。

もしかしたら、もう思い出したくもないような場所なのかもしれない。

それでも、僕の主観で感じたのは、「羨ましい」という感情だった。今でも自分の家が、そこにあるんだと。

昔のまま、そこにある家を持つ彼らにとって、僕が先ほど歩いてきたこの通学路は、一体どのように見えるんだろうか。

僕と同じように、この通学路の何もかもが小さく、短く感じるだろうか。それとも、彼らにとっては当たり前にそこにある風景で、なんてこともない、思い出から受け取るフィードバックもないただの風景だろうか。

(改めて文章を書いていて思うが、なんて思慮の浅い考えだろう。家の有無に関わらず彼らにも幸せや苦しみの思い出はあるはずだ。しかしながら、僕の率直な感情を書き残したいのでご容赦願いたい)

そんなことを感じながら、もう少し歩いてみたくなった。

僕の祖母の家は、この小学校から割と近所にあって(大人の僕にとっては、だ)、なんとなくそこまで歩いてみようと思った。祖母のかつての家は、僕が中学生の頃くらいだったか、行政の区画整理だかなんだかで取り壊されてしまって、今は市の施設になっている。

つい先日体調を崩して病院に入院している祖母のことを想いながら、子どもの頃よくおばあちゃんの家にお泊まりしたことを思い出しながら歩いた。

いや、意外と遠いなと思いながら、歩いてきたことを多少後悔しつつ、祖母の家(だった場所)付近にたどり着いた。この辺りは、桑名の数少ない観光施設がある場所で、以前よりもPRや観光利用に力を入れているのか、そこそこに賑わっていた。(今も住んでいる方には申し訳ない言種だが、僕にとってもこの街はまだ多分「僕の街」なんだ、ごめん)

この公園は昔ボーリング場だった。甘酸っぱい思い出がある


はぁ、なんだか素敵じゃないのと思いながら回っていると、ふと気付いた。

ここは、何も小さく感じない、と。

大人になった僕が今感じるままの、ただ圧倒的に現在の姿だ。おかしい、ここだって思い出の場所だ。祖母や叔母に連れられて本屋さんまで歩いたり、ボーリングの終わりにアイスを買ってもらったり、たくさんの小さくて大切な、幸せな思い出がある。通学路と同じはずだ。

ただ、ここでは、たしかに、何も小さくは感じなかった。

この堤防は毎年盛大な花火が上がる、素敵な場所だ
いつかここでポートレートを撮りたい

どういうことなんだろうと頭を捻りながら、この散歩のスタート地点に戻り始めていた。その時、ふと目に入ったのが、小さい頃よく遊んでいた公園だ。

その公園では、小さな子たちがいて、かつての僕たちと同じようにブランコやシーソーなんかで遊んでいた。(Switchでマイクラとかやってなくてちょっと安心したよ、とおじさんらしいことを思った)

その姿をみて、素直に、まだこんな小さな公園でも子どもたちが遊んでるんだなーっと感じた。その公園も、これまでの場所と同じように思い出深い場所だ。ここも、通学路と同じように遊具なんかが小さく見える。

だけど、ふしぎと通学路の時ほどのノスタルジーを感じない。

ああ、そうか。ここはもう今遊んでいる「彼らの場所」だと感じているからだ。この公園で過ごした思い出を大切にしながら、思い出として手放すことができているんだと、そう感じた。そりゃそうね、大人だものね。

そう考えると、祖母の家も今の僕にとっては「良い思い出」であり、多少の寂しさは感じながら、思い出として手放すことができたものだった。この公園よりももっと「自分の世界の外」だったのだ。だから今のあるがままの風景として素直に見れたのだ。

だが、かつて住んだ、高校生の頃離れることになったあの家と通学路は違った。

20数年経った今も、まだ手放しきれていない、17歳以前の僕から断絶された、今につながっていない風景だった。

僕の中では、あの頃のまま幸せな記憶と供に保存された、更新されていない風景だ。だから、昔と今との違いが、違和感として強烈に浮かび上がってきたのだろうと思う。

僕にとって家とあの通学路は、今もなお、思い出の中の姿が正解なのだ。

人生の岐路を前にして、何を怖がっているのか、この短い散歩でよくわかった気がする。

今の僕には、ありがたいことに家族がある。桑名の隣町のいなべ市に住んでいて、奥さんや子どもたち、親戚の皆々様や会社の皆さんのおかげで幸せに過ごさせていただいている。

このいなべ市という町の、緑豊かで空気が清々しい、今となっては愛してきてさえいるこの街の風景が、僕の子どもたちにとっての「家と通学路」になるのだ。僕にとっての、桑名と同じ。

もし、この岐路の行く先を失敗すれば、あの断絶を作り出すのは、僕だ。

子どもたちにとって、いずれノスタルジーとなるこの風景と、将来の彼らとを断絶させるのは、この僕なのだ。

失敗することは怖くない。僕が努力して、無理をして、なんとしてでも繋ぎ止める自信はある。でもその失敗の過程で、彼らがいつか見るであろうこの憧憬を奪うことがとても怖いのだ。

そんな想いを、家族に話すこともなく、勝手に抱え込んで怯えているなんて滑稽だけど、たしかにそう感じているのだと思う。

そんな想いを抱えつつ、僕は、このいなべ市で腰と腹を据えて生きていこうと思っている。いや、そのようにある時点で「覚悟」したのだ。

奥さんがこんなにも素直で、純粋で、優しい人に育ったこの街で、自分を見つめ直しながら、あの時の自分にできなかったことをしようとしている。もう随分自分の中で消化したと思っていた、「家」に対する想いが、家族を通して目の前に立ち塞がるとは思っていなかった。決着をつけたと思っていた。

だけど、そうはいかないらしい。子どもたちにとって、このいなべという町が「自分から手放すことのできる思い出の風景」になるまで、僕はここで生き続けたいと思う。

彼らの生まれ育つこの町で、パパは精一杯やったと、胸を張って言えるように。存分に迷って、面倒臭いおじさんになってしまったまま、今の自分で生きていこうと思う。(多分昔も、面倒青臭い子どもだったのだろうけど)

その軌跡と結果を、noteに残していけたら嬉しいと思っています。

次からは普通に写真やデザインや、今考えていることを話そうと思う、多分。


これだけいなべで生きると書いているのに、この写真の公園は岐阜らしい。


三重県いなべ市で小さなデザイン事務所「スタジオビーモ」をやっています。今は写真撮影を中心にお仕事をいただきながら、コツコツデザインを作ってます。よかったらWEBサイトもご覧ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?