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インドネシア 中国系のキリスト教改宗 完全な私見

 インドネシア、特にジャカルタでキリスト教徒の中国系が増えていると、前回の記事で書きました。
 その理由や原因は、とても個人的なことで、さらに複合的ではありますが、誤差や誤りを恐れずに書けばこういうことです。

 まず、若い人たち、といっても40代以下の人たちは、ほとんどが学校でキリスト教に親しみ、学生のうちに入信することが多いです。
 インドネシアでは宗教団体が学校経営をしていることは普通です。
 と書くと、意外なようですが、日本でも佛教大学や身延山大学、高野山大学と分かりやすいネーミングのものから、知らなければ仏教系と気づかない人もいるであろう文教大学や駒澤大学などがありますし、キリスト教系では上智大学、立教大学やさまざまな都道府県に◯◯カトリック高校のような名前の学校もあります。宗教団体やその関連法人が経営している学校は日本にも少なくありません。
 若い人たちは、キリスト教系の学校に入学して、そこで学生生活をおくるなかで、キリスト教に入信するという人が多いです。
 また、彼らは既に移民の3世や4世、場合によってはその下の世代だったりするため、中国系という意識はあるものの、中国系としての個別の文化には思い入れが(親世代などに比べて)なかったり、そもそも文化自体を受け継いでいなかったりします。そのため、仏教に固執することも少ないようです。
 そして、親世代がすでにキリスト教に入っていたら、なおのこと仏教が選択肢にあがることはほとんどありません。

 次に、老人たちですが、中には実際にキリスト(イエス)に救われたのでキリスト教に改宗したという方もいます。救われたというのは、家族や自分の病気などトラブルを抱えて、まだキリスト教に入信していないがダメ元で、教会で祈りをささげたらトラブルや悩みが解決したというものです。
 もちろん、そのような本来的な意味での改宗ばかりではありません。

 現実的なものでは、お金とお葬式の心配から仏教をやめてキリスト教に改宗するというものです。
 実はインドネシアの中国系の間でも(彼ら自身はかたくなに認めませんが)少子高齢化がすすみ、独居老人の数も増えています。
 日本とは若干違い、少子化といっても非婚や子供をもたないという人は少ないですが、彼らの親世代に比べれば晩婚で子供の数も少なく、多くて3人くらいという感じです。また、独居ではあるものの近くに子供が住んでいることも多くみられます。
 日本人から見れば、なんだ、それならなんでもないじゃないか、という感じも受けますが、彼ら(老人)たちからすれば、自分たちの親世代との違いを感じてもいるようです。その違いの中にはお金の稼ぎやすさや、それにともなって金回りのよさなども含まれます。
 そこで、宗教に話を戻しますと、日本とおなじく、自分が亡くなる時に子供たちに、お金のことも含め面倒をかけたくないという意識が強くなっています。そういう時に、仏教はお金がかかりすぎるのと、家族の手間がかかりすぎるということだそうです。
 日本と比べて云々はしませんが、やはりお布施の問題があり、お金がないから簡素なお葬式で、というわけにはいかないようです。
 しかし、キリスト教なら(全部の教会がそうなのかは断言できませんが)お金がなければ無いなりの葬儀を、そして葬儀の世話は教会の仲間がしてくれて、家族が少なくても(最悪の場合家族がいなくても)大丈夫だそうです。
 そして、そういうことを心配させる一番の要因は、清明節のお墓参りです。日本ではお墓参りはお盆になりますが、中国や日本の沖縄では旧暦の4月にある(今年はついこの間でした)清明節にお墓参りをして、同時にお墓の掃除、そして墓前で親戚が集まり軽いピクニックのような感じで食事をします。
 沖縄でも亀甲墓というタイプのお墓は墓の前に少し広めのスペースがあります。これは親戚みんなが墓掃除のあとに集まり座ったりお弁当を広げることができるためです。
 インドネシアの中国系の方も伝統的にはほとんど、清明節に墓参りと墓掃除をすること前提に、墓の前にスペースのある形の墓をつくってきました。
 少子高齢化が進むと当然、墓参りにくる人数も減ります。また、子供や孫などがキリスト教に入り、清明節に来なくなったり、来ても線香を触ることを拒むケースもあります。理由はなんであれ、墓掃除がされなくなると墓が荒れます。
 そこで最近では、いわゆる永代供養のように、お寺に貸金庫のように、ロッカースペースを借りて、そこに写真などを飾ることが増えてきました。その際骨は散骨したり、小さな骨壺に改葬するなどしています。
 そこで上記のお金やお葬式の心配とあわせ、お墓の世話まで含めた自分の死後の面倒を考えて、キリスト教に改宗するという方も増えています。

 また、友人関係で改宗する人たちもいます。僕の感覚ではこれがいちばん多いように思えます。
 たとえば上記のような理由で改宗した方たちは、その友達に、意識してか無意識かはともかく、改宗してよかった、あなたもどう?などと布教してきます。また、キリスト教の教会の集まりは(宗教的な内容なので人によって好き嫌いはあるでしょうが)説教以外に歌や踊り、そして食事会と楽しいイベントではあります。また、説教もいわゆる真面目一本やりでなく、話の上手で聴衆を楽しくさせるような神父や牧師が人気を博しています。教会によっては人気のあるゲスト神父やゲスト牧師を呼んできて、他の教会の信者でも、その説教だけは聞きたいと思わせるようです。そういう神父や牧師はインドネシア以外でも引っ張りだこで今日はインドネシア、明日はアメリカ、翌週はオーストラリア経由でドイツへなどと世界中を忙しく駆け回っています。
 余談ですが、日本の仏教のお坊さんでも、信者というか、檀家をひきつける方の説教は、漫談とまではいかなくても聞きごたえのある講演会のように楽しいものだそうです。
 そういう友人たちの楽し気な様子を見て、新たに改宗する方がでると、結果的に友人たちが続々とキリスト教に入信して、未改宗の人は予定や話があわなくなり、結局改宗するというパターンです。
 友人たち以外でも、たとえば家族(特に子供)がキリスト教だから、家族で宗教を合わせたいということで改宗する方もいます。

 だいたい、改宗した理由を聞くと上記のような理由なのですが、もうひとつ、これは完全に私の推測ですが、仏教と違い、キリスト教では何をしているのか、どういう説教なのかが(彼らにとって)明確であるというのも、理由なのではないかと考えています。
 中国系といっても、(広東語や福建語なども含めて)中国語ができない方もいますし、できる方々でも読み書きができる人たちは多くありません。
 実際にお寺にいきますと、(当然ですが)お経があって、開いてみると漢字の横にアルファベットでルビがふってあります。
 それは、あくまでも読み方であって、意味は書いてありません。
 法事や参拝で来た時ようのものですから、それでいいのですし、実際にインドネシア語に翻訳したものも出版されてますから、問題はないのですが、さて、家でお経を(お話として)読もうとする方がどれほどいるのかというと疑問です。
 それに対して、キリスト教の教会の聖書はインドネシア語で書かれており(中国語や英語などのものもある)、意味がわからない呪文として、聖書の文句を唱えることはありません。
 そして、経典(お経や聖書)ですが、仏教のお経は多種多様でこれを読めばいいというものが揃い(ワンセット)になっていないことも普通です。
 しかし、キリスト教の聖書は旧約、新約が合本になっていることが普通で(別々になっている聖書もあります)、これを読めばいいというのが明確です。
 日本では宗派ごとに必要なお経を1冊にしていることが普通ですが、インドネシアでは、僕が見た限りではそうなっていませんでした。もっともこれは日本の仏教とインドネシアの仏教の、お経以外にも、違いによるもので、単純な利便性の問題ではないかも知れませんが。
 この読むべき経典が明示してあり、説教や儀式が理解できるということも、実は彼らのキリスト教への改宗を助けているのではないかと考えています。

 長くなりましたが、最後に、キリスト教に改宗せずに、仏教徒のままでいる人たちもいるということに触れます。
 それは、家族が続々とキリスト教に改宗しても、仏教徒として亡くなった家族や親族の供養のために、わざと改宗せずにいる人たちもいます。
 彼らは、一応自分が元気なうちは、仏教式で法事を行い、お墓が残っていれば清明節のお墓参りをしたり、お墓がない場合は永代供養を頼んでいるお寺に参拝に行ったりしています。
 しかし、多くの方が自分の死後、または亡くなる前にそのお墓や永代供養されている親族の骨を散骨し、墓じまいをすることにしているようです。
 自身がキリスト教徒に改宗するかはわからないが、中国式(ここでは仏教式の意味)の墓は残さないで、子孫に負担させないと言う方も少なくありません。

 なお、中国系でも、古い時代にインドネシアに移住してきた家系では、イスラム教徒もいます。
 彼らは中国系ではありますが、普段はインドネシア人(マレー系インドネシア人)のような扱われ方をされています。

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