予測不能にもほどがある 22 ギリシャ編 (8 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_024 Athosは遠かった
23/ jun 1978 頑張れっ Tessaloniki
早朝に着いたTessalonikiの駅前の公園は、テントを張った避難民で、溢れていた。
不謹慎な言い方なのだが、瞬間ジプシーのテントかと誤解してしまった。
(実際自分は現在まで大きな災害にあったことは無いので、事の重大さが理解できていないのだ)
皆、端正な身なりをしていることが、余計地震のリアルさを自分に教えている様であった。
諭す様な歩調(何か後ろめたい)で進めば、確かに古いビルの壁は至る所で崩れ落ち、やたら立ち入り禁止のロープが張り巡らされていた。
Athensの都会のビル群からすると、Tessalonikiの街の建物は未だ古きを遺してして、親密な感じに溢れているようだ。
Athensの外務省でAthosへの入域許可証をもらう折、案内してくれたバス便の出るSt.Nikoraosはちんまりとした教会だった。
それでもこの災害によるためか、寄せる人々は少なくない。そんな中でも老管理人(?)は親切に鍵を開け、最初に信者を迎えてくれるであろうフレスコの説明を(慣れない英語で)懸命にしてくれた。同時に地震のヒビを哀しそうに指摘していたのが、印象的だった。
到着したバスは相変わらずのオンボロで、運転手もかなりの老齢。
祈る思いで、Ouranopolisへ。
今日はここで一泊、明日の船は、朝早い。
避寒地なのだろう、港の突端のビザンチン風の城壁砦にドイツ系老人二組が寄り添って夕日を楽しんでいるのが妙にお似合いな、貴族的でバカンスを感じさせる街である。
コラム_42 Athosアトス自治修道士共和国
ギリシャ正教最大の聖地・修道院共同体であり、ギリシャ国内にありながら治外法権が認められ、女人禁制のもと、住民は全て修行僧・聖職者のみで、20の修道院を自治している共和国ということになるらしい。
陸路でのアクセスは無く、Mt.Athosは45kmの細長い岬の南端に位置し、その沿岸は断崖絶壁となっており、隔絶された秘境と言われている。
Athensの日本大使館で推薦状を貰い、ギリシャの外務省で入域許可証を取り、TessalonikiのSt.Nikoraos教会(Athos事務所?)〜Ouranopolis乗船〜Dafni下船〜Karye・police入国〜Karye・政庁で滞在許可証・・・。
兎に角、手続き多い。(役所業務は何処も同じか)
挙げ句の果ては・・・。
息も絶え絶え、たどり着けば・・・こんなところで引っ掛かるとは・・正に「予測不能にもほどがある・・」
の一幕ではあった。
でもヤッタ憾あったかも・・・。
24 / jun 長〜い なが〜い Athosの一日
Dafniへの船は、フェリー連絡船ではなかった。
船着場なのか、岩場に小さく突き出た井桁のデッキ脇に、テント屋根を張った漁船か小型遊覧船かと覚しき船が、コトンコトンと朝凪に揺れている。
朝7:00出発に合わせてか、三々五々乗り込んでいる客は大半が身なりから連想して聖職者の神父たちらしい。他に数名の外国人。
(確かにこの船でいいようだ)
皆申し合わせた様に長い髪を後ろに束ね、長い顎髭に黒の詰襟スカート(?)の神父が横に座ると、些か気持ちがドギマギする。
(観光気分にはならない、俺、何しに行くんだろう)
細く途切れ途切れにくねる小さな砂浜ラインと険しい断崖ラインの繰り返しは、この海路でしか(陸路でのアクセス方法は無い)人を寄せ付けない憾を際立たせ、自分はまるで島流しにあった様に思われ、それでもこの波立つ連続軌線は、凛として美しい。
船はATHOS自治国のある半島の西側を舐める様に、既に2時間以上南下している。
幸いにも今日は穏やかな波に迎えられているようで、エーゲ海の光を満喫できている。
そして船が回り込むように進路を変えると、一段と険しい断崖絶壁の突先に禁欲の城然としたモナスティが現れた。
周りを無数の部屋で囲み、神秘の空気を纏ったかのような教会が断崖の上にニュッと顔を出し、恰もわれわれを睥睨しているようだ。
Dafniの港に着くや、待ち構えたようにバスに乗り込むと30分程で自治国の政庁のあるKaryeに着くのである。
バスを降り、Policeで入国(?)手続きを済ませると、許可証をもらうため政庁へ。
緑深い山間に、ここは確かに「中世が死骸のように」横たわっている音の無い世界である。
何かシーンと静まり返り、耳鳴りがするかのようだ。
(ナントいうことだ!)
結局、滞在許可証は下りなかった。
長髪のせいだと言う。一時期かなりの人数のHippieが入り込んだためらしい。
(ここでもか!Mataraの再現ということか!)
https://note.com/jolly_alpaca572/n/ncd0d4bcc209a?magazine_key=m112007fff1c2
「Monkのように髪を掬ぶ」からと嘆願してみたが、聞き入れられることはなかった。
(ナント俗っぽい話か!)
頭に血が上って、おん出てきたのはよかったのだが、今度はお金がない!
一軒の両替できるところがあると聞いて頼ってきたのだが、そこもダメ。帰ろうとするにも両替できなければ身動きも取れない。
余程途方に暮れていると見えたのか、(流石、神の国か)声をかけてくれたMonkがいた。
言葉は通じないのだが(恰も分かっているよ!という風に)即座に財布を出し、全てのお札(彼の財布の中を思わず覗いて見てしまったのだ)100DRX紙幣 三枚を差し出したのだ。(ああ〜温情!)
住所をもらい、丁重な御礼を表したと思いきや、(さて、一命は取り留めたとばかりに)この世界の空気、もう少し味合おう、どうせ今日の船はないだろう、勝手な解釈で一晩過ごそうという気変わりは、めっぽう早い。
近くのモナスティを散策と決め込む。
兎に角、車は無い(バス以外)から歩くだけ、許可証も無いからモナスティ内部にも入れない・・・。
草いきれが胸に詰まるほどの埃っぽい道から樹々の芳しい香りの風の中を進む。
単なる清々しい田園風景とは異なる、デジャブな琴線に触れているようなこの感覚は何か。
17:00の礼拝に紛れ込むことができた。
外国人の数人のグループについていっただけで、何の咎めもなかったのだ。
(あるいはモナスティではなく、教会には誰でも入れたのかは、不明)
多少の負い目もあって入ったものだから、教会の名前すら分からないが、調度から見るにかなりの格式のある教会であるのは視てとれた。
カリヨンではないだろうが、4種類ほどの音程の違う鐘の響き合いから、礼拝は始まる。既にそれはリズミカルに胸に響き、心地良い。
その祈りは仏教上の|声明《しょうみょう》などとは異なり、完全なる歌唱となって、アルト・テノール・バスとパートを折り重ねるように詠いあげられていく。
既に祈りは1時間程続いている。呼びかけの鐘の音で待ち構えていたかのようなMonkたちが何処からともなくぞろぞろと現れ、イコンに十字を切りキッスをし終わるといよいよクライマックスか。
格の高い司祭らしきが大きな香炉を大きく振り翳すとドームは一気に官能の香りに満ち満てる。そしてその香炉を教会の天蓋から下りている鎖に引っ掛けるや振り子のようにグワーンと一旋、放つのである。
合わせるようにもう一つの香炉も放たれ、礼拝内の宙は激しい勢いの香炉が交錯乱舞することになる。
そして実はこれだけでは終らなかった。
既にかなりの勢いの増した香炉のチェーンに、一段と遠心力を加えようとするかのようにMonkがしがみ付いているのである。
(ひぇーっ、サーカスじゃん!)
子供の頃熱狂した地球儀の中を2台のバイクが交差・疾走する、あのシーンが蘇った・・・。
余韻に浸りながら礼拝堂を出ると、外は猛烈なスコールか。雨宿りの体で数人の外国人に引き摺られる様に、隣の建物に逃げこむとそのままの拍子で、テーブルの端に座らされることになった。
(?)何が起きているのか理解できなかったのだが、テーブルの上は1枚の皿と一つのカップが、何組も並んでいた。
(食堂?)合点がいった。
確かに夕食の時間であり、この外国人たちは滞在許可を持ち、このモナスティに本日宿泊するグループなんだ、と初めて理解した。
テーブルの向こうから順に、ポトフのようなジャガイモのスープとパン2切れが各自にサーブされている。
慌てて、あのMonkから借りた内の100DRX札を引っ張り出し、皿の下に挟んだ。
何事もなかったかの様にポトフとパンのサーブは終わった。
皿の下には何も残っていなかった。
(Charity 喜捨ということで良いと思います)
(実際は滞在許可証が交付される折、宿泊・食事代込みの費用があるらしい)
誰も物言わぬ、(余りの薄暗さに言葉を失なっているよう)このつましい食事は恰も「最後の晩餐」を演じているようであった。
空腹に寝ることもままならず、電気のない蝋燭の明かりを厭い、しかし夕日にMt.Athosのピンク色に染まるさまは圧巻で、同じ思いか同宿のドイツ人と二人、物言わず3時間、どんな時間(これが中世の時間か)が流れたのだろうか。