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予測不能にもほどがある 25 旧ユーゴ|イタリア編 (2 昭和的実録 海外ひとり旅日記

       



日記_027 非の打ちどころの無い街

 

   29 / 30 / jun 1978  海に傾いた街

晴れ   晴れ
pension 60Din×2

Urçin〜Budba hitch 2h.
Budba〜Tivat hitch 0.75h.


バスは既に夕闇の中、おそらくこの辺り素晴らしい渓谷が展開されているだろうことは、時折ヘッドライトに照らし出される覆い被さるような岩陰で想像はできるのだが、そんな中を悪戦苦闘しながら走るバスを思い描くばかりで、景色を堪能する術もない。

峠の頂上らしき(暗黒で分からない、唯 寒風が吹き上げてくるコトで察せられるだけだ)に小屋があり、一回だけの休憩をとる。
ガスランプの炎が怪しく、人々の既に疲弊した顔を照らし出す。

長かった9時間旅を終え、早朝Urçinに着く、時差の関係だろう、既に陽は上り切っている。どうも時刻と太陽の動きが噛み合わず、しっくり来ない。
実際、人々は6時頃には動き出しているよう、だから一般の工場は7時が始業だと。

久しぶりに見た海に、「海だっ!」という感慨がないのは、姿・形は日本とは全く違えど、Urçinの街が古い佇まい故か、そのどこか落ち着いた印象が、妙に日本の「海に傾いた街」(漁村に限らない)に似通って感じられたからなのだろうか。

小さな入江にローマ時代からの城砦に囲まれた岬の丘が突き出ている。

城壁内に入り、3階建位の古い建物に挟まれ細切れにアドリア海が収まってくれれば、最高のシャッターチャンスだ。

アーチは自分の腹をえぐりながら 時を記憶していく



そんなシャッターチャンスに期待を込めて、もう一泊することにした。
(安いが気の利いたペンションにも巡り合えたからでもある)



 コラム_49  ユーゴの今 と 旅人の財布事情


Deçanで、彼らのカレッジのDomitoryも案内されたが、どうも俺の中で”社会主義”という未知が幅を利かせているようであった。

しかし彼ら若者の顔色からはしょげた印象など微塵も感じられないし、街中でも人々は(多少洗脳された部分はあったにしても)概ね前を向いて暮らしているようには感じることができた。

確かに貧富の差は無いとは云えない身なりの子供や人々を見かけるが、思想や風俗の点での統制は皆無のようである。
現在のチトー大統領(実は1980年死去後のユーゴは混迷の時代を迎えることとなるようだ)の自由市場化政策が受け入れられているのだろう。


一方社会主義体制の影響を受けるという点では、われわれ観光客にはごっそり持っていかれる憾あり

ホテル・交通網は結構割高。土産物はふんだくらんかな。
但し、食べ物はそれに比し、安い



ところで食べ物と云えば、この国も市場や商店でさえ、値札というものがない。トルコ・ギリシャとも同様であった。

これは観光客にとっては交渉の醍醐味・楽しみの一つではあるのだが、食べ物や見廻り品購入をする場合は、結構、死活問題である。

”今日のランチ代はいくらにする?”  ”このオレンジ一個、いくら?”

これを探り当てるには相当の鍛練も必要で、時間もかかる。
納得できる価格と思われる場合でも、大半は地元の人々の値段とは、まだまだかけ離れていると言わざるを得ないだろう。

ではこの難問にどう納得・対処するか。
気付いたことがある。

日本でホンの少し前(1975年頃)ワンコインランチというのが流行り、程々に満足のいくランチを食べることができた。
ワンコインとは500円硬貨のことで、長い間親しみのあった紙幣の五百円札に取って代わろうとしていたのだ。

すなわち物価上昇が貨幣の価値を下げた結果、最小紙幣が硬貨に変わる時期となって現れるということになる。

成程、日本でも五百円紙幣(1994年発行終了 使用は継続)が最小金額紙幣であり、どこの国でも最小紙幣か次の位の紙幣あたりで、”カツ丼”程度の満足度を得られる貨幣価値に設定されているのではないか、という仮説は充分成り立ちそうだ。

トルコでは5・10TL紙幣(50〜100Yen 1978年。2.5TLコインがあり、日用品買い物には最も利便が良かった)がそれに当たり、ギリシャでは50・100DRX紙幣(325〜650Yen 1978年)、ユーゴでは10・20DIN紙幣で、十分に腹鼓みを打つことができた。

結論としては「最小紙幣に着目して、予算(ランチ価格)の目安を立てる」ことは、少しでもその土地の生活の理解に貢献し、その時々の”Reasonable Price”(決して安い!ではなく、原義の通り”理由の通った”価格)を会得することだとしたら、充分に意義があると思われる。

しかし、トルコの場合はリラの下位単位にクルス、ユーゴスラビアではパラがあるのだから、われわれ俄か造りの旅人に、その国の庶民の家計と同等の購買を心掛けようなどと云う奢った考えを持つのは、所詮無謀というべきなのかも知れない。



  01/july  コーストサイドドライブ 

晴れ
Tivat〜Lepetane bus 15min. 5Din
Lepetane〜Kamenari ferry 10min. 2Din
Kamenari〜Herceg Novi bus 20min. 6.5Din
Herceg Novi〜Dubrovnik bus 1.25h. 28Din

pension 100Din×2


折角朝早く起きたのに、一足違いでバスに乗り遅れとは。しかしお蔭でヒッチハイクが出来、バス代浮かしてしまった。
猛スピードを出すドライバーには腰が引けたが・・・。

この見え隠れしながら走るコーストサイドは、全く美しい

Sveti Stefanなどは、まるで絵に描いたよう。

海岸線の砂浜が細い砂道となり紺碧の海にせり出し、そして小さな岩の島へと繋がり、オレンジ瓦の家並みが城壁に囲われながら押し合いへし合いしているなんて・・・。
2時間のコーストドライブも一旦Budvaで完了。

サンドイッチを頬張りながら(Budvaも例に違わぬ美しい街、寄り道しよう)と思った矢先に、拍子で振り上げたヒッチサインに車が止まる。

(うぅん、どうしよう・・・ご厚意に甘えようっ!

道は内陸へと向かったのだが、すぐに湖畔に、しかし湖ではなかった

フィヨルドのように余りにも深く、アドリア海が切れ込んでいるのだ。

そのためTivatの街でヒッチをバスに乗り換え、その向こう岸の街に行きたいのなら、こちら側のLepetaneという街まで出て、回り道を回避するためのフェリー(恐らくここを逃せばマラソンコース位を迂回することになる)に乗り換えなければならないのだ。

しかし長時間になりがちな乗り物移動ばかりでなく、時にはこう云う予測もしない障害物競走のような行き掛かりの変化・リズムも、結構楽しい。

Lepetaneと云い、渡しの先のKamenariの街と云い、まるで芦ノ湖の湖畔の街の風情で、(ここは、何処?)丸出しの感慨にハマることとなる。


それでもまだまだ先を急いで、(?急ぐ理由なんてないのだが)バスに乗る。
30分も掛からず、Herceg Noviという大きな街(車窓からは、相変わらずの城壁を持つ美しいリゾート風の街と察せられる)もあっという間に通り過ぎた。

(確信の判断力が麻痺している)

走馬灯のように繰り出される街は目まぐるしく俺を誘うのだが、留まる踏ん切りを与えない。
今までもエイヤッで降り立ったところでハズレはなかった
なのに、こんなに美しい街々に後手を踏んでいる・・・。

バスはそんな俺の気持ちに愛想尽かしするように、山間を目指し始めたようだ。
隠されたアドリア海は、二度と戻っては来ないかのように、岩盤と緑が続く・・・。

そして真っ直ぐで長ーい坂を加速しながら転げ落ちる先に、突然視界が解放され、お伽話の一ページを捲ったかのようなまっ青な空と紺碧の海とオレンジ瓦の群が再来したのである。

Dubrovnikその姿はこの世に非の打ち所のない街であった。

 



 コラム_50  Yugo|Itary Map_2



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