見出し画像

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある トルコ編 02



日記_003 容疑者なのか

Polis/簡易裁判所
/領事館

ガラタブリッジ /スルタンアーメッドモスク/グランバザール

 23/mar 1978   
 永久保存のポートレート


今日は寒い、警察の窓には朝から冷たい雨か。

午後、両指一本一本の指紋を取られ、胸の前に番号札を掲げさせられ、やけに眩しいフラッシュでバシャッバシャッと4方向から写真を撮られた。(トルコ警察永久保存版?)

二流映画用にしか使われないシーンかと思ったが、実際に行われているのである。
まあ容疑者なのだから仕方がないか。

裁判所は裁判を待つための人で溢れていた。

いつ呼ばれるとは知れぬ無限の時間を待つ。
手錠を手首に食い込ませて待っているらしい少年の目が虚ろに悲しい。

自分も調書を持って長い行列の中をジグザグと行く。
(領事館のS氏の話では何とか担当裁判官を洗い出し、「多少掴ませた」から早く呼ばれるはずだとのこと。必要経費は後精算か。)

どれだけの時間が空転したのか、大学の階段教室のような小さな部屋に入ると、確かに山積みの書類の影に裁判官と書記らしき人(司法服を着ている)が鎮座していた。

我々が着席するや、待つ間も惜しいのか顔も上げずにボソボソと2分間・・以上っ!
・・一旦の無罪放免。

しかしパスポートは戻ってこなかった。付き添ってくれた領事館の現地職員によると、新ためて請願し後日引き渡されるのだという。

総領事館で打ち合わせの後、宿を変えることにした。

しばらくはイスタンブールにいる必要もありそうだし、街のど真ん中より港に近い方が俺の性にも合っているし、気分も変わることを期待しよう。

そこは例のガラタブリッジ(=アジアヨーロッパを繋ぐ浮き橋)もある下町風情に溢れた港地区で、滞在者もトルコ人しかいないようなこのホテルにしばらく厄介になることに決めた。

しかもここは第1日目のホテル代の1/6で済む。



 コラム_03   傘がない


2〜3月、イスタンブールは雨が多い。

地中海気候に雨の景色は予想外であった。
曇天の空に夕立のようなスコールもある
が、多くは冷たい霧のような雨で、何か
日本的で、親しみが湧いてくるものである。

しかしすぐ止むのか、人々は傘を持たない。
男たちは革ジャンの襟を立て、女性はスカ
ーフ(ヒジャブ)に身を隠し、一向に雨を
気にする気配はない。
(因みに宗教の影響だろう、普段から街で
の女性の姿は圧倒的に少ない)。

道は舗装されてはいるが脇道に入ると当然
のようにぬかるみが多い。
自分はピョコピョコと右に左に飛び跳ねる
所を、彼らはあまり気にかける様子もなく
泥んこ水たまりをバシャバシャと行く、
んな自分のリズムとの差にどうしてだか、
ちょっと顔が赫らんでしまう。

日本的と言えば、桜を見た。

Sirkeci(シルケジ)の港側からそんなぬか
るみがしばらく続くつま先上がりの坂が、
しばらくの自分のお気に入りルートとなった。

坂の左右からは金属細工を打つリズミカルな
音が心地よい。
そして坂の上りきった視線の広がるその先に、
スレイマニエ・モスクの大ドームに抱えられる
ように小さな桜がひっそりと待ちうけていてく
れると思えるからこそのマイブームの一つの理
由がそこにある。

とかく旅は人の心をセンチメンタルにする
・・・。

アジア側を臨むガラタ橋(しっかり雨は降っている)


 23/mar この淡々とした感じ

Otel Çaglayan (25TL/日)

baklava 2.5TL

あ〜あ、全く落ち着かないスタートを切ってしまった。
(とは言え、あり得もしない「事件」に一旦の治りどころに辿り着いたことを良しとするような、この淡々とした感じは何なんだ!)

旅の気分一新にはバカ喰いが一番か。


トルコの食堂はホテルのバイキングビュッフェのように暖かく盛った料理が並んでいるので、メニュー選びで悩むことはない。

ローストチキン丸ごと一羽〜そそる〜(ヨコスカ育ちの故か否か、子供心に感じた西洋風の豪放さには劣等感を孕んだ羨望を感じるのである)、ズッキーニのライス肉詰めドルマ、ほか一品、75TL也

腹膨れて、気分も少し晴れたか。


ホテルへの帰り際、薄暗い路地角に自転車の荷物をガサゴソしているオジさんに出逢った。覗き込むとベコベコなブリキの薄ぺらなバットが2段重ねで自転車の荷台に括り付けられていて、中にバクラバというお菓子が整然と並んでいた。

一つ買って口に放り込んだらジュワッと幸せが溢れた。

イスタンブールに到着以来の色々な出来事のオンパレードに、整理もつかない空(うろ)の様なものが一気に爆発して粉々に散った。

そして何とはない可笑しみが、そのバクラバのべっとりとしたハチミツとともに弛緩していく唇から滴り落ちて、石畳みを濡らした。



 コラム_04   翻(ひるがえ)って、身支度の話      


残業300時間なんてバカな働き方のツケが回って
きたか。

大学卒業して、初任給52,000円(基本給の倍以上が
残業代だった)で、ディスプレイのディレクター業
は本当に寝る暇もない程だった。

4・5年経って多少仕事が回せるようになると、案の
定 虚無が襲ってきた。

(今思えば全く必要ではなかったと言える)知識が
ボタボタと溢れていく
ように思えたのだ。
先輩の「仕事なんか4割の力でやれ」という言葉に
も引っかかっていた。


幸いにも通帳には100万強の数字が既に記されていた。
使う暇もなかったのだ。


当時ディスカウントチケットなど出回っておらず、何
とかPakistan Air の往復オープンチケットを手に入れた。
17万円だった(このチケットは全ての寄港地でストップ
オーバーO.K
だったので、行き当たりばったりの旅には
大いに役立った)

所持金をどうやって持っていくかも大きな問題だった。

旅の予算は100万円と決めていたので、残りのお金は
全てトラベラーズチェック( 確か100$,50$,20$,10$
札で20枚程度、後は全て5$,1$チェック )に代えて、
ビニール製(腹巻き状にセットすることを想定して)
のポーチに詰め込んだものだ。

所持品は2・3泊の出張程度の簡略なもので、安物のシュ
ラフとスイスアーミーナイフがちょっとこだわったかな
程度の装備であった。
出発が3月だったことと行く先も地中海中心だから暖か
いだろうとの推測による荷造りであった。

当時「地球の歩き方」もまだ発刊されていなかったので、
行く先々での移動や滞在情報などは皆無でのスタートと
なった。

唯一オデュッセイという誰が発刊していたのかどこで手
に入れたのかも判らない不定期のガリ版刷り数枚に書か
れていた現地情報の切り取り方に触発されたことが、こ
の旅を決行するモチベーションともなっていた。


Thomas Cookの欧州列車時刻表・Michelin|Bartholomew|
Kümmerly+Freyの地図が、唯一の情報手段であり、また
頼りにするもの
となった。

とりわけMichelinのアフリカ地図には‘eau potable’(飲
水可)などの現地情報が書き込まれていたのには、驚き
と崇敬の感動を受けたものだった。

用意すべき情報がない心許なさを多少でもカバーするよ
うにと奮発して通い始めた英会話学校(グレッグインタ
ーナショナル)も、「SUMO wreslerはスポーツマンか
不健康人か」
の議論でネイティブの先生と意見が合わず
腹を立てて辞めた。

いやはや前途多難は予感されるものの他のアプローチ方
法が見つかる訳でもなく、初めてのプライベートな
(出
張では数回のアジア周辺国渡航歴あり)「海外丸腰一人
旅」は、見切り発車される事となるのである。



日記_004 パスポートは戻らない

 

 24/mar 海外勤務も楽じゃない?

グランバザール/
スレイマニエ・ リュシュテンパシャ・ イエニ・ バヤジットモスク


結局パスポートは貰えなかった。

領事館のS氏の話では「いつになるか分からないが、しばらくかかるかもしれない」「折を見てまた方策を考えてみる」(また奥の手の催促か)


お金も入用だろうからということで、銀行ではない両替マーケット(ブラックマーケット?)を案内してくれた。
1$=27TLのレートだったから、150$の換金という事は3500yen儲かったわけか

(S氏も海外歴長いんだろうなぁ)

(それにしても俺、両替容疑で捕まったんじゃなかったっけ)

(クワバラ、クワバラ。でもまあいいか、イイこと教えてもらったし儲かったんだから・・)。

S氏と別れ、今日は初めての晴天だったので、落ち着いて街を歩くことにした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?