見出し画像

ベトナムで出会ったおじさんの話

国際交流の仕事をしていた頃、何度も訪問したのがベトナムだった。ハノイから少し離れた地方都市で、プログラムの関係者と共に下見をした時のこと。日中の打ち合わせを終え、親しくしている関係団体の方と夕食後に街歩きをした。それほど大きな都市ではなかったが、その分ハノイに比べてバイクや車も少なく、のびのびと歩けたのが印象的だった。

スマホで彼女がカフェを探してくれた。湖のほとりにある、静かな場所だった。食後のジュースでも飲もうと、夜風の気持ちいい、湖のそばのテーブルに席を取り、よもやま話に花を咲かせていたところ、突如見知らぬおじさんが声をかけてきた。ベトナムの地方都市で英語を話せる人間は決して多くない。そのおじさんはベトナム語が分からないようで、英語が話せる人間を見つけて嬉しくなったようだった。

聞けばそのおじさん、翌日ベトナムの女性とお見合いをするという。韓国人で、兵役を終えてからは自国でエンジニアをしているが、なかなか出会いがないので、ベトナムにわざわざやってきたのだそうだ。出会いがないから国を飛び出して海外でお見合いして、しかも言葉も文化も全く違う相手と結婚しようと思うくらいの人である。突然私たちに話しかけることにためらいがないのはそういうことか、と理解した。悪い人ではなさそうだったし、頼んでもいないのに私たちのカフェ代まで払ってくれるという。言葉も通じない地方都市にやってきて、話が出来そうな(しかも女性)に出会えて本当に嬉しかったのだと思うが、ここで私たちが親身になって対応しすぎてしまうと深夜まで離してもらえなさそうに感じたので、おじさんが私たちの席のそばに座りこんで根を生やしてしまわないうちに、カフェを出ることにした。

翌日、おじさんとの出会いを、仕事仲間で日本語が話せるベトナム人のガイドさんに話したところ、最近出会いを求めて韓国人男性がベトナムにやってくる事例は多いのだと教えてくれた。仲介業者がいて、農村部に住むベトナム人女性を、韓国人男性に紹介するのだという。国際結婚をして、女性はベトナムから韓国に嫁ぐが、言葉も文化も異なる外国での生活は、決して楽なものではないだろう。お互いが違いを尊重しながら、うまくいくケースもあるのだと思うけれど、そうでないことの方が多いだろうなと私は感じた。あのおじさんだって、明らかに寂しさから私たちに話しかけてきていた。業者にお金を払って、海外に出かけていってまでパートナーが欲しいと願う、その根底にあるのは、一人でいることの寂しさなのかも知れないと思った。

私の理想は「互いの違いを尊重し、面白がれる世界」だけれど、今思えばそれは、とっくに寂しさなど越えてしまった世界のことなんだと気付いた。人が自分を知り、他者を知ろうとする行動は「人は一人で生きていないし、一人では生きられない」と知って初めて起こせるものなのではないかと思う。一人が寂しいと思うのは、一人で生きている、生きなければならないと思い込んでいるからではないだろうか。その思い込みを手放さなければ、違いを知ったがゆえに寂しさが一層深まるだけなのではないだろうか。このコロナ禍で、人が気軽に国境を越えられなくなっている。国を越えてのお見合いなど、とてもできそうにない今だからこそ、あのおじさんが寂しさを乗り越え、幸せになっていてくれたらと、何だか願わずにはいられないのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?