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「死」から「生き方」を考える

ここのところ「死」について考えさせられる話題が多く耳に入ってくる。天気が不安定なことも手伝って、私自身がそういう話題に引き寄せられやすくなっているのかも知れない。だからといって、別に死にたいとか、辛いとかそういう精神状態になったわけではないが、何となくエネルギーが下がり気味なことは分かる。下がりついでに「私が死んだら悲しんでくれる人はいるだろうか」とふと脳裏によぎった。当たり前じゃないか、と即答しつつ、この問いに即答ができなくなったり、ノーと言ってしまう精神状態が、死を選ぶということなのかも知れないな、と思った。

考えてみれば、誰かと一緒に何事か仕事をしている日常の中で、死が簡単に入り込む余地はなかった。圧倒的に「生」の状態が当たり前だった。しかし、今の私は意図しなければ誰とも関わらず家に閉じこもれる状態にあり、もっぱら自分との対話が一日の大半を占めている。自らの意識の深淵を見つめながら、それまで気付かなかったことに目が行くようになったり、忘れていたことを不意に思い出したりして、言語化しているわけだが、立ち位置そのものは「生」全開だった頃とほとんど変わっていない気がした。仕事に取り紛れて、あえて思いを巡らす機会を作らなかっただけで、絶えず私はじーっと、自分の意識の奥底を見つめ続けていたのかな、と思う。昔から何となく、自分の意識をのぞきこんでいる、もう一人の自分がいるような気がしていた。崖の下(自分の意識の奥底)がどうなっているのか知りたくて、バランスを崩して落ちないように注意しながら、下の様子がよく見えるギリギリのところに身を乗り出し続けているような感じだ。それはきっと、自分と自分の人生に対する強烈な好奇心の現れではないかと思う。これからの日常にどんな変化があったとしても、このスタンスは変わることはないだろう。

そんな自分に気付くと、最初の自分への問いかけである「私が死んだら…」への答えは、もっと明確な「イエス」に変わった。今、私が死んで、人生を終えることに最も悲しむのは、他でもない私自身だからだ。これから先の人生に何が待ち受けていて、何を自分が感じ、どう生きるのか。どんなことが起こっても、失望して自分で命の期限を切ってしまうより、全てを味わって日々を生き切る方を私は選ぶ。もちろん、残された人生を生き切った時、私との今世での別れを惜しんでくれる人が一人でも多いに越したことはない。でも誰かに評価されることよりも、自分自身が最期に「よく生きたな、偉かったぞー!」と労ってやれる人生を生きよう、と思った。

死に際のことを考えていると、不思議に「どう生きるか」が見えてくるものだ。雨はまだ降るが、気分は少しずつ上がり始めている。考えてみれば、私たちは皆、生まれた瞬間から「死」に向かっている。生と死は表裏一体、どちらも意識することで、自己承認も深まるのだと気付いた出来事であった。

自分らしさ、自己承認、ありのまま、聞かせていただきます。詳細はHPよりどうぞ→ https://rain-sound.jimdosite.com/


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