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泣きたい時に起こっていること

以前に比べて涙もろくなった。昔から涙腺の弱さは自覚していたが、今年に入ってから、これまでの人生で流してきた涙の量をとっくに越えたような気すらしている。何をきっかけに心が揺れるか分からない。悲しみだけが原因ではない。感情の質量のようなものが感じられると、どんな感情も涙に結びついていくようだ。

小さい頃から「泣くな」と言われてきた。泣くのは恥ずかしいこと、からかわれることだった。物心ついた頃から絶えず言われてきたので、疑問に思う余地もなかった。おかげで強い人間にはなれたかも、と思う。しかし「(泣きたいけれど)泣かない」という行為は、もしかすると感情そのものを抑えることにつながっていたのかも知れない。我慢してきた自覚はあまりなかったが、泣く頻度が上がったことで、もっと自由に感情表現できる可能性があったのではないかと思うようになった。辛い時に辛い、悲しいと素直に言えていなかったような気がする。涙をこらえて、時には笑顔すら湛えたこともあった。でも、そこで表現しきれなかった感情は、心のダムに涙となってたまっていて、心が揺れると放出されるようになっているようだ。

たしかに泣いたって状況は変わらないのだから、どんなことが起こっても粛々と前に進むしかない。そんなことはこれまでの経験上、自分が一番よく分かっている。それに、泣くと思いのほかエネルギーを使うし、疲れる。だったら前に進む方にエネルギーを集中させる方が効率的だ。そういう意味では「泣くな」という親の教えが一概に間違いだったとも言えない。でも、不意に溢れる涙から「自分はこんなに我慢していたのか」「その我慢は本当に必要だったのか」と思う。誰かを困らせたくない、傷つけたくないと思うあまりに、出さないようにしてきたたくさんの感情が、歩みの速度を緩めたことで、今このタイミングで発現しているのだろう。その誰かへの「優しさ」は、自分の心の動きを犠牲にすることで生まれてきたんだな、と感じる。

しかし、これから自分がいたいと願う世界の辞書に「自己犠牲」という言葉はない。私にとって本当の意味で「自分らしく生きる」とは、自分の心に素直に生きること。心のダムの水位を上げすぎないこと。すなわち泣きたい時に泣き、悲しい時に悲しみ、叫びたい時には叫べることだ。これからは今まで以上に思いっきり、これまで押し込めていた気持ちを解放して、ヘトヘトになるまで自分の心に付き合ってやろう、と思う。人目もはばからず泣いている私を見かけたら、どうか優しく見守っていただけると嬉しいです。

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