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親孝行な生き方

自分が自分らしく生きようとすればするほど、家族、とりわけ父との関係が相変わらずギクシャクしてしまう。このご時世なのでしばらく帰省しなかった分、ぎこちなさはさらに深まった。今の関係性について思うところを一通り書き綴り、そう言えば何年か前にもこの話題で似たようなこと書いたような…と思い出し、過去の投稿を見返したら、何とほぼ同じことを書いていた。変わっていないどころか、以前より私の想いが不寛容になっている気さえした。成長のない自分にちょっと落胆しかけたけれど、文面を見比べながら、大きな違いに気づいた。

以前と明らかに違うのは、親子関係がうまくいかないことを「悪いこと」「何とかしなくてはならないこと」という捉え方をしなくなりつつある自分がいる、ということだった。人の話を聞かせていただくようなことを生業としながら、自分の身近な家族とうまくいってないなんて、何だか説得力がないし情けないと思っていた。でも、自分の願いや想いに向き合った時、父とのそれが違うならば、その違いを認識こそすれ、変に辻褄合わせをしたり、いつか分かってもらえるように…みたいな訳の分からないふんわりとした楽観視ほど、本質から離れてしまうと感じるようになった。自分らしく生きているという自分の信念があってのギクシャクなら、上等じゃないか。もう金輪際実家に帰れなくなったとしても、また勘当されたとしても、私が自分の生き方に責任を持って、積極的にその状況を選ぶなら、それでいいじゃないか。むしろ一貫してそうしてこなかったから、父は私との関係に悩んでしまったのかも知れない。何を考えているか分からないと言われるのは、そういうことなんじゃないかと気付いた。

勉強も、仕事も、パートナーのことも、成人してからこの方、私はいつも自分で決めてきた。父への説明はいつも事後報告になりがちで「お前は相談して来ない」と何度も咎められた。ここで言う相談とは、許可取りとほぼ同義である。でも、良い大人が自分の人生を自分で考えて選択するのに、なぜ親に相談する必要があるのか。同業者だとか、人脈が被るとかならまだ相談の余地もあるだろう。仮に全く経験値が違うとしても、違いを尊重してくれる言動がこれまでにあったなら、良き理解者としてフィードバックを求める機会もあったかも知れない。父を馬鹿にしていた訳でも、軽んじていた訳でもない。でも、相談者としては認識して来なかった、ただそれだけで、それこそが何年も変わらない事実なのだ。親としてはその寂しさをどうにかしたくて、事あるごとに拗ねているのかも知れないけれど、その寂しさを埋めるために私の人生の時間がある訳ではない。周りに絆されたりして、変な歩み寄りめいた態度を取って、私が自分の軸をブレさせてはならない。私らしく生きていくことこそが、最も親孝行なことなのだから。

幸い、父以外の家族は私への理解を示してくれている。お互いとりあえず元気でがんばってるみたいだし、会えるなら会いたいと言ってくれる。そんな具合で十分。悩んでいるなら話も聞くし、相談にも乗る。私が相談者としてふさわしいと思うなら、そうしてくれれば構わないし、もっと近くにより良い相談者がいてくれるなら、その人に聞いてもらえばいいだけの話だ。私にとって家族という存在はそういうもの。血が繋がっているかどうかだけで、他の人間関係と大きく変わらない。やっと自分の気持ちに素直になれた気がしている。




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