人間は感情の生き物である、という言い回し

何かしらの主張の背景や、誤解を恐れない表現で言えば「盾」として人間は感情の生き物であるという言い回しが使われることがある。標語としての言い回しはここでは扱わない。ところで、感情の対となる存在に論理があろう。

論理的な思考は、幾分かは先天的な要因があるにせよ後天的に身に着けた一つのスキルであり、努力の結果生み出される思考である。一方、本能的に、感情によってなされる思考や行動というのは、論理によってなされる行動よりも、当人にとって重要視されて行動力の原水となりやすい傾向が見られるのだろう。したがって、感情の生き物である、というわけだ。

感情によって人が動くことも、それにアプローチすることが大事であるとされることもさほど違和感はないが、誰もが持ちうる感情に呼びかけるこの「人間は感情の生き物である」という言葉には、ある種の偏った視点で利用されることがあり、そのせいで本質が霞んでしまうように思う。結果的に、先に述べた「論理によってなされる行動よりも、当人にとって重要視されて行動力の原水となりやすい」の「当人にとって」という部分が霞がかって利用されるように思う。

人は人の感情を理解することができる生き物だ。しかし、全員が同じ感性をもっていきているわけではないし、感性を育てたところで、それは理性に寄って理解された、論理的に構成された感情の解釈でしか無い。その解釈自体は有用で、共感はしなくても理解できることによって相互に協力関係を結ぶことが出来る。恐らくその関係を結ぶことが、生存に役立ったからこそ、人類の脳みそは肥大して論理と感情という対極的な二者を比べられる程度には発達したのだろう。そして私という個体も、自分の感性では理解できなかった感情を、論理によって解釈しようと努めることもあったし、それが功を奏することもあった。

しかし、私はこの「感情の生き物である」という後ろ盾をもった主張を、自分自身が受け取る時、あるいは他者が受け取っているのを見たときに、強い違和感をおぼえることがあった。主張をする人物の感情を武器にして、主張を受け取る人物の感情をおざなりにしていることがあったのだった。これは特に、論理的に物事を展開できる人と、論理的に物事を展開しようとはするが論理が飛躍していたり、根拠に乏しい主張をする二者の間で起こる。ここでは論理性にそもそも乏しい人物は想定しないが、論理的に物事を展開しようと努め自分の主張を疑い続けられる人物と、自分の論理は筋が通っていると思い込んでしまう人物との間でもこの現象は起きるだろうし、どちらが正しいかはあまり重要ではない。

論理的に物事を展開できる人は、自分の感情を元にした意志や考えを論理的に説明するので、論理的な展開が不得意な人物との間で議論になるとその人物の感情をおざなりにして理詰めにしているように見られる。そして、論理的な展開が不得意な人物が、「人間は感情の生き物なのだ」という言葉を使って、自分自身の感情を論理で展開することを放棄する構図が出来上がる。

前提として、両者ともに感情の生き物であるはずだ。さらに言えば、感情を論理で表現できる、より感情への理解がある一方と、感情を論理で表現できない故に論理という共通言語で対話が出来ず、感情の重要さだけを説く一方に分かれる。先にも述べたが、この時前者は感情をおざなりにした冷たい人物のように見られ、後者は温かみのある、前者の人物から加害されている人物のように扱われるケースが有る。

果たしてどちらが感情の生き物を理解しているのだろうか。

もしかしたら、同程度には理解しているのかも知れない。しかい、ここで言う後者は、自分の論理に陶酔してしまっていて、論理的に説明がつく「人間は感情の生き物である」という命題に酔っているのかもしれない。

自分の論理に陶酔するなんてことはありがちだろうと思うし、それに警鐘を鳴らす意味で、この言葉は有益だと思う。一方、この言葉を人に向かって使う時、自分がこの言葉の手軽な論理性に陶酔していないかは十分注意したいと思った。

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