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Plaza de Mayoの記憶-その4 : 五月広場の母たち や 祖母たち

Escrito por: José A. Napolitano
Guía de Turismo registrado en el Ente de Turismo de Buenos AiresUniversidad Nacional de Avellaneda

これまでの記事で、五月広場が、あらゆる種類の大衆的、政治的出来事、場合によっては悲劇的な出来事の中心地として重要であったことを述べてきました。そしてもう一つ、この45年間に2,300回以上も繰り返されているデモ運動があります。それは「1810年5月25日の五月革命」や、「1945年10月17日のペロニズムの誕生」とともに、すでにこの五月広場やアルゼンチン史の一部となっている物語です。
 
20世紀、アルゼンチンでは6回の軍事独裁政権がありましたが、その最後の軍事独裁政権(1976年〜83年)は、政治家、労働組合員、ゲリラ、教師、知識人、労働者、学生など、政府に反対する活動や考えを持つ疑いのある者を、異常な方法で排除するという恐ろしい政権でした。

拷問(肉体的、精神的なもの)、レイプ、誘拐、射殺、薬漬け、手足を縛って生きたまま飛行機からラプラタ川や海に投げ捨てたりもしました。そして、これらの行動は、のちの民主主義政権時の裁判で、軍隊が計画的そして頻繁に行なった弾圧のほんの一部にすぎないことも証明されています。(裁判の一部は現在も継続中です)

 また、捕らえられた女性から赤ん坊を取り上げ、他の家族に売ったり、不正に養子に出したりすることもありました。これは最も信じ難い事の一つです。これらの子供たちは親族とのつながりを一切失ってしまうため、“robo de identidad”(身元情報の窃盗) と呼ばれています。
 
この独裁政権下で、軍や警察、準警察に拉致・拘束され、そして多くの場合、未だ消息が分からない人々を、”Desaparecidos"(失踪者)という呼ぶようになりました。1983年に選出された民主主義政権により行われた「Nunca más(二度と起こさない)」という人権侵害と失踪に関する報告書には、「失踪者」の親族からの苦情が1万件近く記録されており、また各種NGOや人権団体は3万件あまりの事例を挙げています。


 

五月のピラミッドの周りを歩く母親たち

1977年4月30日、14人の失踪者の母親たちが、当局の注意を喚起し、そして要求を受け入れもらうために、五月広場に集まりました。彼女たちは、消息を絶った夫や息子、親族に関するデータ、情報、あらゆる手がかりを探していました。しかし軍事政権が国家統制令を出し、人々が公共の場で集会を開くことを禁じ、その結果 ”歩き続け”なければなりませんでした。そこで、母親たちは「ピラミデ・デ・マヨ」の周りをゆっくりと歩き続けたのです。

そして1977年10月、ルハン巡礼に参加する際には、お互いを確認する方法として、白い頭巾を被ることを決めました。白い頭巾とは、大抵の場合、失踪した子供たちが使っていた布製おむつの布です。今日、白い頭巾は世界中で「五月広場の母や祖母たち」の象徴であり、5月広場に描かれているのを見ることができる(全国にも沢山あります)。

ピラミデ・デ・マヨの周りの地面に描かれている白い頭巾


  「五月広場の母たち」の創設者の一人 アズセナ・ヴィラフロールは、1977年 軍事政権による「失踪者」となりました。彼女は誘拐され、秘密の拘置所と拷問センターに収容された後、生きたまま海に投げ込まれました。いわゆる「死のフライト」と言われているものです。10日後、彼女の遺体は浜辺に打ち上げられ、「NN」(身元不明人)として埋葬されました。
 
2005年 特別捜査チームが、他の母親たちと一緒に、彼女の遺骨を探し出し、DNA鑑定によってアズセナ・ヴィラフロールであることを確認しました。同年、彼女の遺灰は、彼女が息子を探すために戦った場所である ピラミデ・デ・マヨ に埋葬されました。プエルト・マデロ地区にある一つの通りは、彼女の名前が付けられています。

 
 そして、子供を探したのは母親だけではありませんでした。
多くの妊婦が誘拐されました。娘や嫁、そして生まれたはずの赤ん坊を捜して行進した母親もいました。つまり「五月広場の母たち」とともに、「五月広場の祖母たち」もいたのです。今日(2022年7月21日現在)祖母たちは130人の孫を取り戻しました。しかし、まだ自分達の本当の身元が分からない孫が300人ほどいると推定されています。

マルビナス紛争のとき、ブエノスアイレスには、軍政の検閲を逃れることができる外国人写真家が沢山いました。そして戦争に関するポスターが街中に貼られました。しかし「五月広場の母たちや祖母たち」の問題のことは誰も語りません。「広場の狂女たち」と呼ぶ人たちもいました。

孫を探していた一人の老女は、どちらの問題もアルゼンチンの人々にとって重要だと考えていたので、深い怒りを覚えました。そこで、彼女はポスターを書き、デモ行進に持っていったのです。五月広場で手に看板を持っている老女 デリア・ジョヴァノラ の写真が世界を駆け巡りました。そして彼女は孫を探すことを決して止めませんでした。39年間探し続けた結果、2015年、ついに孫を発見しました。

デリア・ジョヴァノラは2日前 (2022年7月19日) に96歳で亡くなりました。

あとは、よく言われるように、歴史に残るような......。
 

「マルビナスはアルゼンチンのもの、そして失踪者もアルゼンチンのもの」。 


1985年にアカデミー賞を受賞したアルゼンチン映画『La Historia Oficial』では、当時の失踪者や赤ん坊の盗難の問題が扱われています。この映画は軍事政権が終わったすぐ2年後に作られたことや国際的な評価を得たことで、特別な価値を持つようになりました。

 やがて「五月広場の母たち」「五月広場の祖母たち」という組織が設立され、芸術家、スポーツ選手、国家元首、精神的指導者、知識人などに来訪されるようになり、世界的に認知されるようになりました。

しかし組織内でも強い相違があり、それぞれが異なる道筋、政治的スタンス、イニシアティブをとっています。それゆえ政治思想に共感せず、当初の目的から遠ざかっていると考える人が多いことも事実です。しかし彼女たちは自分たちの意見を述べ、信念のために戦うことをやめず、社会的な紛争や大きな抗議活動には必ず参加しました。

そして今日、これらのすべてを経て、彼女たちは勇気の見本となりました。
なぜなら、アルゼンチンの歴史上、最も残虐な政府、そしてその政府を支持した教会、ビジネスマン、政治家などに立ち向かったのです。

自分たちの息子や娘、夫や妻、婿や嫁、孫の居場所を知るために!
「五月広場の父たち」もいるのですね。

彼女らの努力と粘り強さのおかげで、独裁政権の犯罪者の多くが獄中で死亡したり、起訴されています。

親愛なる読者の皆さん、もし木曜日の15:30頃に五月広場の近くにいるならば、「失踪者」になった親族のために主張し続ける母親たちと、時事問題についてのデモ運動をお見逃しなく!歴史的なイベントに参加することになるでしょう。

「広場の母たちよ、民衆はあなたたちを抱擁する」という聖歌が聞こえてくるでしょう。。。


<おまけ>

マヨ広場の変化とイベントに関するビデオへのリンク:

マザーズ2000周年の日本語記事(2016年):

<スペイン語原版>


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