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夕日を解釈するという事

コロナは当然の如く嫌なものだが,コロナ禍で新しい趣味が出来た。

「日没の20〜30分前を目安に出発して,走って,辿り着いた”最高の場所”で日没を迎える」という,通称サンセット・ランである。

いや,これが”通称”なのかは知らないが,今ネットで「サンセットラン」で検索してみたところ,ある程度は一般的に使われているということが判明したので,安心した。少なくともわたしは,そう呼んでいる。

サンセット・ランを始めたのは,一回目の緊急事態宣言下であったが,宣言が明けて徐々に日常らしきものが戻りつつあると,つい”忙しさ”にかまけ,それから遠のいてしまった。

時は経ち,目下の宣言中,わたしは再び,走って夕日を拝みにいきたい気持ちになった。

という訳で,ここ数日,またサンセット・ランに挑んでいる。

サンセット・ランに於いて重要となるのは,「どこで夕日を拝むのか」についてである。

サンセット・ランを始めた当初は,どのスポットに映る夕日が綺麗かを探るべく,毎日時計と睨み合いながら駆けずり回ったものだ。

出発前に地図である程度当たりをつけてみても,実際は立ち入り禁止にエリアになっていたり,探しているうちに辺鄙な場所で日没を迎えてしまったりと,少々苦労した。が,最終的に辿り着いた場所は,シンプルにも,家からそう遠くない,幾度か訪れたことのある場所であった。

ただ,日没時のそこは,只管に素晴らしかった。以前,午前中に犬の散歩で通った時とは,全く違う場所なのである。

永遠を彷彿とさせる空の下に広がる,オレンジ色の東京湾。遠方右手には,港区のビル群が聳え立ち,左には,無口そうな台場の景色が広がる。それらを繋ぐのが,中央に堂々と構えるレインボーブリッジ。そして,奇しくも————日は情趣を解するものなのか————レインボーブリッジの”下に凸の部分”に沈んでいくのである。

わたしはそこに辿り着いて,夕日の美しさを知った。大袈裟な気もするが,これが本当に美しい。何度みても,感動するものである。

さて,わたしは毎日同じ様な顔をしている夕日に,全く飽きないのである。

なぜこんなにも飽きの才があるわたしが,日々飽きずに夕日を拝みたいと思うのだろうか。


解釈を拒絶して動じないものだけが美しい

————小林秀雄著『無常という事』に於ける一節である(元より,これは本居宣長の抱いた一番強い思想だと記されているが)。

一見歴史というものは,見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない,そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない,そういうことをいよいよ合点して,歴史はいよいよ美しく感じられた。

原著者曰く,歴史には死人しか現れて来ず,従って退っ引きならぬ人間の相しか現れないし,動じない美しい形しか現れない。

思い出となった過去が美しく思えるのは,人間が過去を飾るからではなく,過去の方で人間に余計な思いをさせないだけ,というのだ。

一方で,人間はまあ「動」な生き物である。あれやこれやと考え,言い出し,仕出かす。解釈をしたがる。

……死んでしまった人間というものは大したものだ。何故,ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると,生きている人間とは,人間になりつつある一種の動物かな

という風に,そのとき著者の傍にいた川端康成は言ったらしい。


わたしは,不動な「歴史」と,「日没」は同じものとみている。

夕日に限らず,一日とも同じ空や海が広がっていることなどないのは先刻承知の上で,わたしは自然の日々の違いを見出したい訳ではなかった。

寧ろ,わたしにとって夕日は常なるものである。だからこそ,わたしが夕日に求めるものは,一貫している。

一方わたしといえば,無常な存在である。

一度夕日をみて美しいと思ったとて,暫くすればその記憶を解釈しようとするだろう。そして,夕日がわたしに与えるものはなんであろうなどと詰まらぬ事を考え始めるのだ。

夕日にたいして,最早解釈など不要である。

思い出が,僕等を一種の動物である事から救う

本書にはこう書かれているが,わたしは解釈が始まるより先に,思い出に頼らずとも,また現物を拝みにいきたいのである。

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