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モノポリーで人生を悟った話

モノポリーというボードゲームをご存知だろうか?

モノポリー(英語:Monopoly)は20世紀初頭にアメリカ合衆国で生まれたボードゲームの一つである。プレイヤーは双六の要領で盤上を周回しながら他プレイヤーと盤上の不動産を取引することにより同一グループを揃え、家やホテルを建設することで他のプレイヤーから高額なレンタル料を徴収して自らの資産を増やし、最終的に他のプレイヤーを全て破産させることを目的とする。モノポリーとは英語で「独占」を意味する。
【出典:Wikipediaより】

わたしがモノポリーをはじめてプレイしたのは19のときである。

この時期、わたしはとにかく何らかのビジネスをやりたいと考え、もがいていた。当然わたしの検索履歴は、起業やら事業やらで溢れかえっていた。

そんなわけで、web広告のターゲティングの網にかかった次第である。「○,○○○千万円を運用する、起業ゲームに参加してみませんか?」という広告をインスタグラムでみて、思わず申し込んだのだった。

当時のわたしは、というか今も基本は変わらないが、面白そうと思ったものには取り敢えず飛び込んでみるスタンスである。飽き性なので、損切りも早いが。

そして、その巨額を運用するとやらで打ち出されたゲームに参加することになったのだが、それこそがモノポリーであった。

モノポリーを知っている人なら、「そんな大袈裟な言い方するなよ(笑)ただのボードゲームだろあんなの」となるかもしれない。

実際、壮大な謳い文句のわりには、ただのボードゲームでしかなかった。人生ゲームを少々ビジネス寄りにしたといった具合である。

しかしわたしは、その「ただのボードゲーム」をプレイし終わったときに、自己の人生について悟ったのである。(無論、「ただのボードゲーム」で終わらなかったのは、わたしの内省と抽象化の癖によるところだという自負はある。)

***

ゲームは、4人で行われた。全員、同じような学生たちである。

わたしたちは確か、最初に幾らかのキャッシュを与えられ、それ以外の資産は持っていない状態でスタートした。プレーヤーは家を建てていくのだが、他のプレーヤーが自分の家のマスに止まると、お金(おそらく家賃に当たる)を徴収できる。

そして、さらに同じエリアに複数軒を建てると、持ち家に投資して家をホテルか何かにアップグレードすることができ、より高い金額を他プレーヤーから徴収できるようになるといった、そんな内容であったと記憶している。

だから皆、取り敢えず自分の取りたいエリアを決めてそこに集中的に家を建てたいのだが、そう簡単に行かせない何らかのルールがあり、従ってプレーヤー同士で交渉して家を売買することもできるとも言われた。そして、誰かが破産した時点で、ゲームは終了である。

こうした、様々なルールはあったのだが、よくわからなかったわたしは「まあやってみないとわからないし、取り敢えずどうにかなるだろう」といってゲーム開始に合意をした。

家が建つエリアは6つくらいあったのだが、わたしは一番の高級住宅街に建てようと思った。戦略はないが、ハイリスクハイリターンに賭けようと思ったのだ。高い家は、買うときに巨額のキャッシュアウトを伴うが、そこに他プレーヤーが止まった時には高いリターンが望めるのである。

他のプレーヤーは、安いエリアに住む者から、ミドルレンジまで、様々であった。複数プレーヤーが同じエリアに建てるのは非合理的なので、取り敢えず自分の縄張りはまず抑えて牽制した。

一通り皆が一軒建てると、人生ゲームの如く、サイコロで決まった数のマスを進んだ。

このゲームでは、止まったところに家があれば(そして十分なキャッシュがあれば)、その家を買える権利がある。

また、ときに普通のボードゲーム要素もあり、例えば刑務所に入って一周お休みしなければならない、とか、罰金を支払わねばならないとか、少々のギャンブル要素もあった。

しかし人生ゲームと違ってゴール地点はないから、巡回してスタート地点を何度も通過することになるのだが、スタート地点を通るたびに200万円だか400万円だかの給料が貰えた。

結論を申し上げよう。わたしは一番最初に破産し、負けたのであった。

また面白いことに、わたしが破産しゲーム終了した時点で、各プレーヤーの総資産額を比較したところ、1位の者と2位以下の者とのそれは、天と地ほどの差があった(無論、わたしはマイナスである)。

一番最初に与えられた資産は、皆同じだった。それどころか、最終的に一番資産を持つことになったプレーヤーは、所々で運が悪く、度々刑務所や罰金のコマに止まっていたのだ。

サイコロの運だけでいえば、確実にわたしの方が恵まれていたといえる。それなのに、最後には何故ここまでの差がついてしまったのだろうか?

思い返せば、勝負は最初から決まっていたと断言できる。

それは、最初に安い家を建てた人が勝てるとかいう、そんな安易なものではない。

そうではなく、何が言いたいかというと、ゲーム開始前から“エクスポネンシャル(指数関数的)”に資産を形成する図を如何に描けていたか?という点につきる、ということなのだ。

最初は皆同じだけの、少額なキャッシュしか持っていない。その微々たるリソースをどこに張り、どのような経路で伸ばしていくのかという戦略設計を最初からできている必要があったのだ。

人生の戦略は、早いうちに設計すべき

なぜ出来るだけ早いうちがいいのだろうか?

わたしの持論は、「歳を取るほど時間資産が減り、且つリスク許容度が下がるから」である。

先程から資産資産と繰り返しているが、資産は何もキャッシュや不動産といったわかりやすい“資産”が全てではない。時間や仲間も十分資産として捉えることができるだろう。

年齢を重ねるということは、間違いなく時間資産が目減りするところを意味する。それは同時に、“資本”としての時間をも失い、更なる資産形成における機会損失をも意味する。

また、一般的に「年齢が上がるほどリスク許容度が下がる」。

上記の如く、年齢が上がることによって資産運用にかけられる時間が少なくなることによるリスク許容度の低下もあるし、或いは家族が増えたり、昇格したりと“守るべきものが増えた”ことによりリスク回避的になる傾向もあるだろう。

リスクを取れなくなるということは、詰まるところ、高いリターンを望めなくなるということだ。

会社員として過ごすことは必ずしも悪ではないが、一会社員は年間数百万〜高くても3千万円ほどの現金資産と引き換えに、膨大な時間資産を失う。

失う時間資産は必ずしも会社で働いている8時間だけを意味せず、所属していること自体や残っている仕事が気にかかることにより、24時間365日、脳内バッテリーが少なからず食われていることを考慮すれば、失っているものの大きさは計り知れない。

しかし、会社での仕事に時間を割くことによって、スキル形成やナレッジの蓄積をすることもできるから、単純に時間と金のアセットの入れ替えが行われているわけではないという見方もできる。

だからこそ、時間資本をどこに張るのか?という戦略設計がより重要になるのである。

今、スキルのため、成長のために行っている作業は、どのような資産形成の過程にあるものだろうか?

わたしは、会社員としての成長のためにはリソースを張らないと決めている。だって、わたしが目指す像は、仕事ができるバリキャリOLでも、高給取りでもないのだから。

一方で、仕事のなかには、今後の人生で使えそうだなと思うこともゴロゴロ転がっている。そういうものは、遠慮なく掴み取る。

やること、やらないことが見えているのは、朧げながらも、自分の人生について毎日毎日考えているからだ。どうやって生きるかは戦略であり、戦略が定まれば、戦術はそれなりに見えてくるものである。

資本主義は勝者総取り

モノポリーの中盤から、まだゲームは終わっていないというのに、完全に勝敗はわかりきっていた。

盤上を周回するごとに給料は貰えるものの、コマを進めるたびに高い家賃を徴収され、キャッシュはすぐに枯渇していく、怖いくらいに。

一方で最初に一番安い家を買った資産家は、再投資を繰り返し、気がつけば立派な資産家になっていた。彼は、他のプレーヤーが彼の宅地を通るたびにガッポリ儲け、その潤沢な財布をもって再び投資にあてた。

最後の結末といえばこうである。

わたしが勝者に家賃を払えなくなり、唯一持っていた不動産を破格で彼に売り出し、なけなしのキャッシュを得てついに家賃を返納したのだ。

その後すぐに破産し、ゲームは終了。

資本主義とは面白いもので、富めるものは富み、貧しいものは更に貧しくなる。

これを実感するのが死ぬ時ならいいのだが、不思議なことに、途中で悟ってしまうのである。もうどうしても勝てないとわかっているのに、降りられない苦しさをジワジワと味わうのは、ゲームも人生も同じであろう。

世の中のルールは誰も教えてくれない

ゲームが終了し、それからあれこれと考えたわたしは、今ならゲームに勝てるかもしれないと思う。

実際、優勝した彼は、慣れた経験者であった。家賃の相場感や、投資に対するリターンを完全に踏まえた上でのプレイだった。

だから、素人相手にズルいなあ、とそのときは素直に思ったものだ。

しかしそこでわたしが言われた言葉は、「世の中のルールなんて、誰も教えてくれないんだよ」である。

必要な情報は、たしかにすべて開示されていた。しかしわたしは、よくわからないから“なんとなく”で物事を判断し、結果大負けしたのだった。

ゲームは、彼のように何回でもプレイすることはできるが、自分の人生は一回しかない。

社会の仕組みを知ろうともせず、周りに流され、運がいいからなんとかなるという考えで、望み通りの人生を生きることはできるのだろうか?

少なくともわたしは、このままいくと自分の人生はこのゲームそのものの結末をなぞると予感した。

わたしは運がいいし、恵まれているといつも思っている。今までの人生、とくに苦労せずにどうとでもなってきたからだ。

しかしこのとき、このままでは“負けるな”と、悟ったのである。だからこそ今、世を知り、その中でどう生きていくかを模索し続けているのである。

・人生の戦略は、早いうちに設計すべき
・資本主義は勝者総取り
・世の中のルールは誰も教えてくれない

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このことに19歳のときに気づけたのは、“運がよかった”と感じている。

時は経ち、もうすっかり22になってしまったのだが、何故今更こんなことを書いているのかというと、最近、その“戦略”がグッと具象化してきたな、という感覚が芽生えているからである。

勿論それは、フィックスしていない。というか、フィックスするものでもないと思っている。

それより重要なのは、「人生において自分がどう在りたく、なにを大切にしたいか」を鮮明に描けるかの方だ。

つまりそれは人生の目的であり、目的が定まれば戦略が定まり、そうすれば次第に戦術も見えてくる。

モノポリーというただのボードゲームは、未熟なわたしにヒントをくれたのだった。

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