ホテルのトイレでキレた話

これは僕がまだ愛知県に住んでいた時の話である。

地方在住のライトノベル作家にとって出版社からのお呼び出しはちょっとした小旅行のきっかけでもある。

愛知県在住だった頃、仕事のために東京に出向いたことは数知れず。泊まったことも数知れず。ひょっとしたら貴重な休日を頻繁に仕事で消費することになってさぞ忙しいのだろうと思われるかもしれないけれど、ここで白状したいのが当時の僕はビジネスホテルに泊まるという行為を趣味の一つとしていた。

そもそも愛知県在住なので帰ろうと思えば帰れるのだけれど勝手にホテルに泊まっているにすぎない。要するにGOTOキャンペーンが始まるより遥か前から僕は勝手にホテルにGOTOしていたというだけの話である。

そういった事情により今より一年ほど前に出版社に出向いたときも僕は即座にホテルに予約をとった。評価がだいたい九点の人気ホテルであった。

その日サクっと仕事を終えた僕はすぐさまホテルに直行した。ホテルに泊まることが趣味の僕にとって観光地を回るよりも現地の料理に舌鼓をうつよりもホテルでカードキーをあてがう瞬間のほうが興奮する。ひょっとしたら僕は変態なのかもしれない。

それはさておきその日も言わずもがな興奮した。だいたい九点の人気ホテルの客室はよそのホテルとさして変わらなかったけれど、それでも僕は興奮した。

出入口のすぐ傍。大抵のホテルにおいてユニットバスが設置されている扉を開いた直後のことである。

 ――トイレの便座のフタが自動でオープンしたのである。

「すげえ!」

僕は声をあげて驚いた。近頃のショッピングモールとかイイ感じのレストランとかで見るやつだ! と思った。扉を開いた途端に蓋をオープンするその慎ましい姿からは長年連れ添った相棒のような頼もしい雰囲気すらあった。

「さあ、座れよ」という幻聴すら聞こえたほどだった。

しかし別に用を足したかったわけでもなかったので僕は扉を閉ざした。すると扉の向こうから「あああああ!」とモーター音が鳴り響いた。どうやら人がいなくなるとまた自動でフタを閉めてくれるらしい。配慮が隅々まで行き届いている。決して安くはないホテル代はこのトイレのために支払ったのだと僕は確信した。

ビジネスホテルに泊まったあとは、僕は基本的に何もしない。やることといえば無駄にテレビを点けて食事を摂るくらいだった。その日はコンビニで適当に買ったサンドウィッチを食べることにした。

手を洗うために洗面所に立つ。

便座のフタが「おっ? トイレか?」とフタを開いた。

…………。

僕は丁寧が過ぎるトイレに対して申し訳なさを感じながら洗面所を後にした。

しばらくしてからお湯を沸かせるために洗面所に立つ。

便座のフタが「今度こそトイレか?」と便座のフタを開いた。

…………。

僕は無言でケトルに水を入れてから洗面所をあとにした。

その後もなんやかんやで色々な用でトイレのためにもトイレ以外の用にも洗面所に何度か立ったがその度に便座のフタはご丁寧にオープンした。僕はここでキレた。

「うるせえ!」

洗面所に居るだけで俺のターンとばかりに便座のフタをオープンするな。しかも長居すると壊れた自動ドアのように開閉を繰り返す始末。もうこんなやつ長年連れ添った相棒でもなんでもない。

開閉のために高速道路の軽自動車みてえなうなり声が鳴り響く。その度に現代のテクノロジーに対してキレるライトノベル作家。全面戦争。もうこうなっては和解は不可能である。

どうにかしてこの相棒面したトイレを黙らせなければならない。

僕はそしてそのときはじめてトイレと真っすぐ向き合った。

そして直後に僕は勝利を確信した。

あほみたいにオープンしている便座のフタの横には、さまざまなボタンが並んでいた。

評価だいたい九点のホテルのトイレは自動開閉機能だけでなく、ウォシュレットや便座あたため機能など、ありとあらゆる人のためのありとあらゆる配慮があったのだ。

そして、並んでいるボタンの一番端には、たった一言の文字があった。

『開閉』

それは一体何を意味する言葉だろうか。言うまでもない。このうるさい便座のフタを黙らせるためのものだ。そうに違いない。というかそれっぽいボタンがそれしかなかった。

だから僕はこのトイレとの戦争の終結を願いながら『開閉』ボタンを押したのだ。

直後のことである。

――今度は便座のほうがオープンした。

「あああああああああああああああ!」

こうして僕は現代のテクノロジーに敗北した。

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