サイン会の裏話

4月某日、都内某所にて魔女の旅々のサイン会が執り行われた。

GAノベル創刊とともに商業出版がスタートした魔女の旅々もついにここまで来たのかと僕は目頭が熱くなった。サイン会なんてデビュー当初から抱いていた夢である。まるで遠足を待ちわびる小学生のようにカレンダーを日々眺めながらサイン会当日を待ったことは言うまでもない。そしてカレンダーを見る度に「やだ……私の予定……空きすぎ……?」と思ったことも言うまでもない。

しかしサイン会当日が近づいたある日、僕はとある問題に直面する。

――まともな服が、ない。

大々的に書かれた『魔女の旅々16巻発売記念 白石定規・あずーる先生サイン会』の幕の前に座るにふさわしい服が僕の手持ちにはなかったのだ。

そんな事実に気づいたのはサイン会二日前の夜のことだった。担当編集氏から「分かってるとは思うけど、サイン会当日はちゃんとした身なりで来てね」と言われてからだった。

は? まともな服ならあるが? と思いながらクローゼットを開けたところで、そういえば引っ越ししたときに服を大半捨てたことに気が付いた。

元々おしゃれに疎く、まともといえる服などそう多くは持っていなかったのもあるが、今年の頭に引っ越した際に、これ幸いと「あー都内の物件って部屋狭いから服とか持っていけないわー」と大半処分したのだ。約半年前の自身の愚行を思い出した頃にはサイン会はあと約一日と迫っていた。

そもそも近頃なんてなんて都内への引っ越しだけでなく、コロナと在宅ワークのせいで部屋からでなくなったこともあり、全身ユ○クロがデフォルトである。もはや世界が僕にオシャレをあきらめろと言っているとしか思えない。

在宅ワークのおかげで「人並みの恰好」「清潔感」「年相応」といった耳が痛い単語から体よく逃げおおせることができていたというのに、やはり現実とは向き合わねばならぬ時が来るらしい。静かに心地よく石の裏で枯葉食って生きていたところをひっくり返されたダンゴムシみたいな気分だった。見ないで!!!!!

しかしさすがに全身ユ○クロでサイン会でドヤ顔するわけにもいかない。

というわけで僕は「人並みの恰好」「清潔感」「年相応」といった単語がそこら中に散らばっていそうな街、新宿まで繰り出すことにした。

まともな恰好を求めて僕は新宿の街を歩いた。そしてまともな恰好を探すために全身ユ○クロでビルの中を徘徊する白石定規。そういえば新宿にもユ○クロあるから帰りに行こうかなぁと思いながら洒落た服屋を見て回る白石定規。もはや魂がユ○クロに惹かれているといっても過言ではない。

都内で服を買うのは初めてのことだった。僕は普段、服屋に入るときは店員に話しかけられないようにステルスゲームばりに逃げ回り隠れ回るのだが、今回はもう考えている時間も惜しかったので店員さんにお任せすることにした。

「何かお探しですかー?」

店内でマネキンばりに棒立ちしていた僕に話しかけてきたのは僕と同い年くらいの男性だった。僕は頷きながら男性に応える。

「実は明日、イベントごとがあるんですけど……」

「ええ、はい」

「ちょっとまともな恰好がしたくて……」

意訳:まともな恰好をコーディネートしてください。

そんな僕の魂の叫びに対する男性店員の反応がこちら。

「えー? そうですかぁ? お兄さん結構良い恰好していらっしゃると思いますよ」

ちょっと!!!!!

それってつまり「お前に売る服はねえよ(嘲笑)」ってことですか!?!?

「えー? そうですかぁー?」

とはいえ褒められたら素直に喜ぶのが僕という男だった。ちょろい。おそらく男性店員も僕のちょろさを一瞬で見抜いたのだろう、畳みかけるように褒めてきた。

「ええ、スタイルもいいですし」とか「身長も高いですし」とか。

そして追い打ち的に、

「シンプルに着こなしてらっしゃいますし、お似合いですよぉ」

と満面の笑みを浮かべた。眩しい……! でも肝心の服装については全然褒めてねえ……!

とはいえ褒められて気持ちよくなっちゃった僕はそのままあれよあれよと男性店員に服を見繕ってもらったのだった。

それから僕は与えられた服を次から次へと着せられては「お似合いですよぉ」と投げかけられるマネキンと化した。

僕の体型や見た目の印象(死んだ魚のような目をした男)に合うようにピックアップしてくれたおかげなのか、「お似合いですよぉ」と何度となく投げかけられた。もはやここまでくるとどんな格好に対しても「お似合いですよぉ」を連呼する新手のAIに見えてきた。そして僕はといえばどんなに褒められても「えー? ほんとですかぁー?」と照れながら受け入れるちょろい男BOTになり果てていた。僕たちは相性がいい……。

「お兄さんはスタイルが良くて背も高いので、こちらの服なんかがおすすめですね」

本日何度目かもわからない誉め言葉を並べつつお似合いですよぉBOT氏がおもむろに引っ張ってきたのはグレーのシャツだった。

「こちらなんてどうですか?」

と言いながら店員さんは鏡の前で僕の襟元にハンガーをあてがう。

「ちなみにこれ、僕とおそろいなんですよぉ」

鏡の前には全く同じ服をきた男が二人立っていた。僕は、「このひと遠回しに『僕もスタイルが良くて背が高いです』って言ってるなぁ」と思いながらも、やはりへらへらと笑いながら「えー? そうですかぁー?」と喜んでおいた。というか僕、身長も体格も別にそこまで言うほど良くない気がするんだけど……。

何はともあれ、そのような流れを経て、僕はその日、まともな服を手に入れたのだった。

翌日のサイン会で「その服めっちゃダサいね」と言われても「店員さんが選んだ服だから!!! 僕の趣味じゃないし!!!!」と言い訳をする準備もしつつ当日を迎えたのだった。

ちなみに余談になるが、店員さんとお揃いのシャツは結局着なかった。

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