309号室

これは私が大学生の頃、とあるマンションの309号室に住んでいた頃の話です。

 当時大学生だった私は、学業のほかにアルバイトと小説の執筆を同時並行で行っており、忙しない日々を送っていました。毎日深夜3時くらいまで作業し、ベッドに入れば死んだように眠る日々。今となっては考えられないことですが、当時の私はそんな風に睡眠時間を削ってまで頑張ることにやりがいを感じていました。

 奇妙な出来事に見舞われるようになったのは、その頃のことでした。
 ある日、いつものように深夜帯にベッドに入った私は、夜中にふと目を覚ましました。

 しかし身体が動かない。
 指先はおろか、首を動かすことも、辺りを見渡すことすらできず、ただ仰向けになって天井を見つめることしかできませんでした。

 ああ、これが金縛りなのか。

 寝ぼけた頭で私はぼんやりとそんなことを思いました。

 そして直後に、ぞわりと背筋が凍りつきました。

 ――いる。

 ベッドの傍ら、視界の端に、何かがいる気配をはっきりと感じるのです。
 髪は長く、線は細く、恐らく女性と思しきシルエットがぼんやりと見えるのです。

 耐え難い恐怖心を抱きながらそれからしばらく目を瞑っていると、気づけば朝になっていました。

 夜中に見たものは一体何だったのだろう。
 結局私はただの見間違いだろうと思うことにして、その日も大学に向かいました。

 その頃を境に私は頻繁に金縛りに見舞われることになりました。

 女は毎度のように私の前に現れました。

 あるときはベッドの足元。
 あるときは部屋の隅からこちらを見つめ。
 またあるときは真上から見下ろすように。

 あまりにも金縛りが頻発するため、そのメカニズムについて調べてみることにしました。

 割愛しますが、一説によれば金縛りとは、脳が一日の出来事を整理するレム睡眠時に偶然起きてしてしまった際に引き起こされる脳の錯覚とされています。

 原因は科学的に解明されているのです。

 きっと私が夜中に見たものもすべて、疲れた脳が引き起こした幻覚なのでしょう。
 疲労回復にはヒーリング系の音楽が良いとのことでしたので、私はスマートフォンでプレイリストを作成し、音楽を流しながらその日も眠りにつくことにしました。

 そしてその日も金縛りに遭いました。

 きっとこれは脳の錯覚。疲れているだけに違いない。私は自身に言い聞かせました。

 目を見開いて天井を見つめます。
 その日はいつもと様子が違いました。女の姿がどこにもないのです。
 寝る前に再生したヒーリング音楽が鳴り響く中、私は言いようのない不安に襲われながらも、とにかく目を閉じて眠ろうと努力しました。

 そうして待っている間。

 やがて曲がひとつ終わり、部屋が静寂に包まれたときのことです。

「——あはははははははは!!!!!!」

 私の耳元で、不気味な女の笑い声が聞こえました。

 翌朝、目を覚ました私はすぐに作ったプレイリストを調べました。作ったプレイリストに女の声など入ってはいませんでした。

 脳の錯覚じゃない。

 確信した私はその後すぐに309号室から引っ越すことに決めました。

 金縛りはレム睡眠時に起きながらにしてみる夢。
 科学的に紐解いたとしても、これまで世の中で起こった金縛りの全てが脳の錯覚であるという確証はどこにもないのです。

 少なくとも、私の耳元で笑っていた女の声は、脳が生み出したものではないはずです。

 結局、それから引っ越して以来、金縛りに逢うことも夜中に女の姿を見ることもなくなりました。

 しかし私は今でも引っ越しを行う度に、もしかしたらまた309号室のようなことになるのではないのかと怖くなってしまうのです。

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