教会内の一致について

某有名福音宣教団体のテーマに代表される、聖書研究のこだわりに対する疑念。


★聖書研究により真理の一致を目指して、それが本当の意味での教会内の一致と言えるのだろうか、一致出来るのだろうか。


聖書研究にこだわりそれを真理の一致の条件で、教会内の一致の条件の鍵となると教えています。


しかしながら、それを言い出したら、

聖書に詳しい人に追い付くことが出来ない人、能力が劣る人もいるはずですから一致なんて有り得ない話ではないのか。


聖書研究により真理の一致として考えて、それを一致の根拠にするなら人間関係を逆に分断させる大きな要因になり得るのではないのか。


<知識は人を高慢にさせる>罠もあるのですから。


そして、人間が人間同士真理の一致は出来るのか。


そもそも、その真理とは何を指しているのか。


教会内の一致は聖書研究云々以前に様々な人間が集まるコミュニティの中でまず指導者リーダーのリーダーシップにかかっていると思う。


信者同士も人間を見て、人間の容姿容貌、見栄えの外見などを見て容易に分断を招く程度の低い言動行動をしている場合ではないのです。


それを強く言いたいし、そのような事をしていては教会内の一致など程遠いとしか言いようがありません。

聖書研究、信仰云々以前の話です。


聖書云々関係なく、先日のWBC侍ジャパン優勝の一致団結一丸となる精神をまず見習ってみようではないか。


一丸となる精神で大事な事は、最もベテランの選手が若手選手の目線に下りてコミュニケーションを取る姿だ。


<サーバントリーダーシップ>と聞こえのいい言葉の聖書の教えがあるが、要するにこのような最もベテラン選手の姿から学ぶ必要があるのです。


<信仰の弱い人を裁いてはいけません。>


信仰者としての基本中の基本原則です。


教会内不一致の最大要因であり、また、先輩信仰者の高慢奢り高ぶりプライドです。

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