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「なりたい自分」は美少女じゃないー「たりない自分」の反メタバース進化論ー

はじめに

「なりたい自分」なんてないし、あったとしてもそれは美少女ではない。魂だって肉体に閉じ込められていてもまぁしょうがないと思う。バーチャル美少女ねむ(敬称略)、お前とやるメタバース、息苦しいよ(SLAM DUNK風)。

 一発目に嘆きを書いておいたところで、本noteの趣旨を説明しておこう。本noteは、先日公開された、バーチャル美少女ねむ(敬称略)のインタビュー(https://forest.watch.impress.co.jp/docs/special/1494236.html
を読んで考えたことを記すものである。メタバースというワードがバズったことで大きく恩恵を受け、影響力をもつようになった氏が、「人間の魂なるものが肉体ごときに囚われているのはもう我慢ならない。自由になるのが当たり前の世界を作っていきたい」などと言って盛り上がっているが、正直勘弁してくれという気持ちしかない。そういうことをまとめたものだ。

本noteは大きく分けて3つのパートに分けることができる。
第一に、氏・・・だけではくメタバースをメディアで宣伝しまくっている「インフルエンサー諸氏」のスタンスに対する批判。
第二に、氏がいう「人間の魂なるものが肉体ごときに囚われているのはもう我慢ならない。自由になるのが当たり前の世界を作っていきたい」という発言への批判。
第三に、メタバースの目指すべき未来への提言である。

正直、いつもいつも似たような論調だが、それだけインフルエンサー諸氏が何も変わらないということを示しているのだ。
まぁいい。本論に入っていこう。

1、「奇人」メタバースインフルエンサー諸氏とそれを取り上げるメディア

バーチャル美少女ねむ(敬称略)が受けているインタビューのタイトルは「「メタバースがITのバズワードとして消費されてしまうのはすごくもったいない」 ~バーチャル美少女ねむにメタバースの「いま」と「みらい」を直接聞いてみた【単独インタビュー】」である。その中で氏は、メタバースという新しい技術に対する潜在的な恐怖をうち壊す必要があり、その手段の一つとして「メディアに積極的にアプローチする」ことをあげている。

 氏は「メディアに出ることでメタバースに対する正しい理解を広めていきたい」と述べている。確かに、一昔前はテレビでも「メタバースとNFTで一攫千金!」的な話が見られていたし、それらを駆逐する必要はあると私も考えている。そこに異論はない。さらに「メディアが普通の人が根底に感じている新しいテクノロジーへの恐怖のようなものを意図的に過剰に煽るケースがある」ので、それを払拭していきたいとも述べており、それは私だってそう思う。最新技術万歳!どちらかといえばそういう思想だ。だが、「出方」ってものをもう少し考えてみるべきではないのか?

 大体、氏やメタバースインフルエンサー諸氏のメディアへの出方というのはワンパターンだ。「メタバースで美少女に!?」「プレイ時間数千時間のメタバース住民!?」のようなキャッチーで「奇異な」もので目を引き、「もしかしてトランスジェンダーですか?」「いいえ違います」的なポリコレ配慮の話が入ったり入らなかったりして、「メタバースでなら遠くに離れていても飲み会とか遊んだりできるんですよ」といって、「皆さんもメタバースにどうぞ!」で〆るというのが大枠のパターンだ。

「そういう取り上げ方以外もある!」と重箱の隅を突く文章の読めないバk・・・目ざとい方のために付け加えておけば、「全てがこのパターンという訳ではないが、多くはこういうパターンだ」ということね。

 本当に、こんな取り上げられ方でいいんだろうか?はっきりいってこういう取り上げられ方というのは「珍獣」枠でしかない。要するに「ヘン」で「可笑しい」モノとして取り上げられているのだ。メディアが「プレイ時間数千時間」ということをプッシュするのも、「ゲームを数千時間やり込んでいる奇人」を紹介するのと同じ文脈だ。だから取り上げる例だって偏る偏る。

 リアルの世界でも、かつて「人間」を「奇異」の目に基づいて紹介するということがあった。1800年代に開かれた万国博覧会では、白人・日本人など「先進国」の人々が、「後進国」に住む民族の人々を「展示」していたことがある。日本が参加した時には、アイヌ人や当時日本が支配していた台湾の先住民族の人々も「展示」していたそうだ。もちろん、これは反省されるべき行為であることは明記しておく(これを言っておかないとうるさくいろいろ言われそうだしね)。
 同じ人間でありながら、彼らは「我々先進国とは違う奇異で理解しがたい風習を持つ珍しい人種」として展示されたのだ。

 わざと悪し様にいうなら、今のメタバース住民の取り上げられ方はこれと同じである。メディアやそれをみるお茶の間の「普通の人々」は、「奇異で理解しがたい風習を持つ人種」であるメタバース原住民の姿を、テレビの中で「展示」してあるのを見るという構図だ。

 もう一度いうが、本当にこんな見方でいいんだろうか?はっきりと、これを読んでいる読者の皆さまにお伺いするが、バーチャル美少女ねむ(敬称略)やメタバースインフルエンサー諸氏がテレビに出てる特集コーナーを自分の親兄弟に見せた後に、胸を張って「オレ/私も実はメタバースやってるんだ!」といえるだろうか?私は絶っっっっっっ対に言えない。あんな「奇人」と同じだとは思われたくない。目を背けたい。
 だがメタバースインフルエンサー諸氏はそれを嬉々としてメディアに売り込んでいる。そして実際取材も多くきて、ご意見番としていろいろなところでご活躍なさっていて、大きな利益を得ている。

 先ほど例として、メタバース原住民の取り上げられ方は万博で人間を「展示」していたということをいった。その例に当てはめるなら、「奇人」として自分を売り込み、時には「メタバースはそういう人がいっぱいですよ!」と吹聴しているメタバースインフルエンサー諸氏がやっていることは、「先進国の人々に同胞を売り渡す」ことに近い。要するにナントカ貿易の元締めである。

 いやー、ずっと言いたかったことを言ってやったぜ(満足)。

 さて、次に「なりたい自分になる」というメタバースを表す美辞麗句について深堀りしていこう。

2、なりたい自分になるのは結構だが、それは美少女ではないんだ

 メタバースではなりたい自分になれる。それはまぁ、そうかもしれない。少なくとも、姿かたちはなりたい自分になれるだろう。だが、その代表例がいつも美少女なのはおかしくないか?

 私もバ美肉しているが、正直別に美少女になりたいと思ってなったわけではない。当時の3Dモデルの事情から実質的にバ美肉するしかなく、それを使い続けていたらなんとなくなじんでしまったため、現在までそれを維持している、という程度の話だ。

 バーチャル美少女ねむ(敬称略)が鬼の首を取ったように持ち出してくるメタバース意識調査でも、女性モデルを使っている人の割合が多いことを強調している。だが、販売アバターが女性型だから、それをなんとなく使った結果女性モデル利用者が増えているだけではないのか?と私はずっと思っている。要するに、女性モデルを使用している人は皆美少女になりたいと思って能動的にそれを選択したのではなく、受動的に女性モデルを「使用してしまっている」人がそれなりに多いのではないか?と思っているわけだ。

 だが、メタバース=なりたい自分になれる=美少女モデルを強調して世の中に打ち出そうとしている人々=メタバースインフルエンサー諸氏のおかげで、そうした受動的に女性モデルを選択した人がいるという意識が伝わらなくなってしまい、結果的にメタバースには美少女になりたい倒錯した「珍獣」が群れている、というパブリックイメージを創り出してしまうのではないだろうか。

 というかそもそも、「なりたい自分になれる」とか美辞麗句を述べ立てているわりに、Twitterでは「ロボやケモノアバターはちょっと・・・」みたいな言説を見ることがよくあるじゃあないか。自分のなりたい姿は支援してもらって、他人のなりたい姿は貶める輩がメタバースには多すぎるな。
 まぁ、これは流石にインフルエンサー諸氏の責任ではないか。いや、某インフルエンサー・・・とまではいかなくてもとある一件で有名になった某氏は「美少女アバターが標準なのにそれ以外を選択するってことはなんらかの問題がある人物がある可能性が論理的に言って高い」みたいなことをいっトルカー。だから場合によっては、0.5%くらいはインフルエンサー諸氏の責任かもしれないな、うん。

 まぁいいや、話がそれた。「なりたい自分になれる」と喧伝するのはいい。本当の所は「なりたい自分になんかなれない」というのが私の本音であるが、まぁそれは別稿にゆずる。だがみんなの「なりたい自分」が美少女なのではない。

 氏が今回のインタビューの中で、次のようなことを言っている。「私の本での究極的な主張は「なりたい自分になって自由に活動できる世界が来る」ということです。「人間の魂なるものが肉体ごときに囚われているのはもう我慢ならない。自由になるのが当たり前の世界を作っていきたい」というのが、私の本の要約であり、私の活動コンセプトです。」

 氏は「なりたい自分」というのが一人一人が持つイメージとしてあって、それに到達することが「自由になるのが当りまえの世界」だと考えているようである。端的に言って、氏の発言はあまりにも「自己」が大きすぎる。そして、他者との関係が介在していない。社会的な流行、規制、「同調圧力」その他諸々。「仕方なく」美少女アバターを使用した私のように、別になりたい自分ではないけれどなんとなく馴染んでしまったアバターを使い続けるような人は意識されていないように思う。これが氏の提示する話の、根本的に抱える問題だと私は思うのだ。

 「なりたい自分」なんてなくたって、なんとなく始めて、使ってるうちにしっくりくる身体だってある。意見や環境の違いからしっくりくるアバターが変わってくることだってある。そういう「受動性の中から生まれる、変化し続ける『自分』」という視点が欠落している。メタバースが・・・というより現在のメタバースプラットフォームが基本的にチャットや会話を行うシステムであるため、どうしても他者との関係性が生じてくる。その関係性のゆらぎのなかから日々更新される「自分」を表現する手段としての「アバターの選択」があるのではないだろうか。
「なりたい自分」が「たりない自分」には、確固たる意志を持って宣伝される「なりたい自分になれる!」という言い方はひどく息苦しいし、それが本質じゃないだろ!とずっと思ってしまうのである。

 要するに、氏の意見は「この世の中心は自分」と宣言しているだけなのである。

 さて、具体的な批判はここまでにしておいて、最後に簡単に「メタバースの目指すべき未来への提言」をしておこう。
 本来、批判と提言はセットではないのだが、なぜか昨今のネット界隈では批判には必ず建設的な提言が必要と思われている節があるし、氏も「メタバースの住民は、情報発信という意味ではおとなしい人が多いと思っています。こういうものは、はじめは変わったものと受け取られがちなので怖いのはすごくわかるのですが、そのままにしていると、どんどん誤解が広まっていってしまいます。だからこちら側から積極的にアプローチして、恐れず発信した方がいいんじゃないかなと考えています。」とおっしゃっているので、少しぐらいはそういう話もしていこう、ということである。

3、目指すべきメタバースの未来


 私が提言するメタバースの未来とは「地方の老人でもメタバースを利用する世界」である。私がよく言う例えがある。「例えば、女子高を卒業してすぐに嫁いで、そこから60年ずーっとリンゴを作り続けてきた青森県のリンゴ農家のおばあさんもメタバースを使って生きていく世界がメタバースの目指す未来である」というのがそれだ。

 1と2で示してきたように、今のメタバースというのは基本的に「奇人」「珍獣」として取り上げられている傾向が強い。利用法も「飲み会」みたいな「若い」使われ方である。だが、時間的ロスと空間的隔たりを飛び越えるメタバースの性質は、それに大きく制約されている人間の活動範囲を大きく広げるものであり、むしろそうした場所や空間に隔てられてしまう老人や子どもにこそ、メタバースというのは活用されるべきだと私は考えている。
 足腰が立たなくなった老人がメタバースを利用して孤独を解消するとか、学校と家しか知らず、行き場所の無い子供の新たな「生活の場」になるとか、そういう活用法が私の提言するメタバースの未来である。

 もちろん、そのためにはなによりも技術革新が必要で、それには気が遠くなるような時間と膨大な資源が必要だ。そしてそれは我々一般人には関与できない部分である。それならば、そういう未来のために我々が今できることはなんだろうか?

 それは、「メタバースはとても『使える』ものであり、機械さえ手に入れば誰もが参入したくなるような環境と雰囲気づくり」だ。それはどんな形でもよいが、分かりやすい指標としては「自分の母親に胸を張って紹介できるコンテンツはなんだろうか?」と考えてみればよい。そういうコンテンツを増やし、宣伝していくこと。これは今後技術革新が起きた時に、多くの新規メタバース住民が現れた際に、メタバースが受け入れられるための下準備なのだ。今は、そういうコンテンツは目を引かないかもしれない。メディアも取り上げないかもしれない。だが、そういうコンテンツを増やすことで、未来への種をまくべきなのだ。

 恐らく、メタバースインフルエンサー諸氏の打ち出しているような方法では、そうした環境と雰囲気は生まれない。あくまでニッチなキモオタの、珍獣の気色悪い趣味の一つになってしまうだろう。それではいけないのだ。それを防がなくてはならないのだ。

おわりに

 以上が、「もう勘弁してくれ」と思ったバーチャル美少女ねむ(敬称略)のインタビューに対する感想と提言である。
 毎度毎度同じようなこと言っているなぁと自分でも思うのだが、メディアへの影響力の無い一般人たる私はこうやって場末のnoteでご意見を開陳するしか手段がないのだ。

 しかしまぁ、改めてインタビューを読んでみると氏は本当に自我が確立しているなぁと思う。「なりたい自分」なんて確固とした形でなんか私は持てないよ。氏からすれば、私のような人物は軟弱だととらえられるのだろうか?
でもまぁ、そういう人も受け入れられるべき場所が、今現在のメタバースなんじゃないかな?
 

本noteに対する批判、批評などは全て開かれている。Twitterなりコメント欄なり、あらゆる場所で「常識的な範囲で」何を言ってもらっても構わない。思うことはしっかり、言葉に残してほしい。以上でまとめを終える。


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