見出し画像

【すずめの戸締りネタバレあり感想】これは、「秒速原理主義者〈ラディカル5センチメーター〉」の見つけた「世界の秘密」についての記録だ

はじめに

まずタイトルにある通り、本noteでは『すずめの戸締り』に関するネタバレがある。具体的には第3章以降にある。しかし「ヤバいタイプの新海主義者」である私の新海論を皆さんの目にねじ込んでいきたいので、第1章と第2章にそれらはまとめる構成にした。

さて、私の新海誠の作品評価は次のようになっている(長編)。
秒速5センチメートル>>>ほしのこえ>>言の葉の庭>雲のむこう、約束の場所 >星を追う子ども>君の名は。>天気の子

もうこのランキングを見ただけで「あっ(察し)」となるように、私は「週末批評」のてらまっと氏が名づけるところの「秒速原理主義者〈ラディカル5センチメーター〉」である(正確な意図とは違うかもしれないが)。

とりあえず、これを前提としたうえでまず第1章では私がなぜ「秒速原理主義者〈ラディカル5センチメーター〉」になるのか、いや「我々」はなぜ「秒速原理主義者〈ラディカル5センチメーター〉」になってしまうのかを考察しよう。そして第2章では『君の名は。』以前の新海誠の作品づくりと、新海誠が「追い求めていたもの」について解釈していこう。それを踏まえて『すずめの戸締り』の感想に向かうことにしよう。

1、私の心は誰となら秒速Nセンチメートルで近づけるのか?

『秒速5センチメートル』はなぜここまで「我々」の心に染み入るのか?この命題についてはちょっとした感想からアマチュア批評、プロの批評、作品分析まで各方面で行われている。作品分析に正解はなく、読み手に解釈が委ねられるべきだろう(バルトとか?文学論は詳しくないので申し訳ない)。

結論から言ってしまえば、『秒速5センチメートル』とは「ひまわり畑少女」概念にとらわれた男の話であり、本来ならば概念、いや妄想・妄執に近い実体のない「ひまわり畑少女」を、可哀想なことにほんの少しだけ実在性を感じ取ってしまった男がそれに囚われる呪いの話である。

「ひまわり畑少女」概念とは、「我々」がよくイメージするもの(主観)で、夏に真っ白いワンピースを着て麦わら帽子をかぶった少女が居る、というものだと思っておいてほしい。個人的には『AIR』あたりからこのイメージが定着しているのではないかと思う。

どういうことか。説明していこう。

秒速5センチメートルにおいて主人公の貴樹は同級生の明里と、小学校という性や愛という生々しい感情から離れた時期に出会い、仲を深めていく。そして、中学生になるタイミングで明里が遠くに引っ越してしまい、会うことができなくなる。しばらく文通していたが、今度は貴樹が種子島に引っ越すことになり、意を決して3月9日に明里の住む町ー電車で2時間はかかる岩舟という遠い遠い町ーに向かう。途中、降雪によるトラブルで電車が大幅に遅れ、予定時刻よりも大分過ぎてしまったが、なんと明里は駅で待っていてくれた。そして2人は冬の夜を過ごし、朝貴樹は自分の街へと帰っていく。

これが冒頭から20分位で描かれる「桜花抄」のあらすじだ。そして、続く「コスモナウト」と「秒速5センチメートル」は、「桜花抄」の経験から抜け出せず、延々と貴樹が呪われている様をみる時間となる。

なぜ「呪い」か?それは貴樹にとって明里が性も愛も超越した、純粋で真っ白な「聖女」として具体的な輪郭を持ち、それに囚われてしまったからだ。

中学生になる前に遠い土地へ引っ越した後の明里との交流は、手紙に限定されていた。小説版は違うのかもしれないが、少なくとも映画本編を見る限りでは、電話などもしていない。しかも、その手紙も引っ越してから過ぎにきたわけではなく、少したってから来たものであり、このままダラダラと文通を続ける間柄ならば、いずれは文も途絶え、精々転居の知らせと年賀状くらいのやり取りで、「明里?あぁそういえば何してんだろうな?」くらいで済んだのだろう。

しかし、貴樹も種子島という、「二度と会えない」かもしれない距離に離れてしまうことから、急遽会いに行くことになる。
ここでも、スケジュール通り会うことができたなら、よき「友達」の関係を維持できたかもしれない。

まぁ、この時点で貴樹は明里からの手紙を暗記する程読んでいたりとか、勝手に「明里はひとりぼっち」的な考えを持っているから危ういといえば危ういのだが。

ここでスケジュール通り会うことが出来なかったことが、貴樹の一生を運命づけた。呪いがかかる瞬間だった。
電車は異常な降雪により遅れに遅れ、駅では長い時間を待たされ、最終的には電車が走行中に立ち往生してしまう。貴樹が「時間はしっかりとした悪意をもって通り過ぎていった」というほど、ゆっくりと確実に時間は過ぎ去っていく。


貴樹からしてみれば、「もう二度と会えないかもしれない」+「明里は今どうしているだろうか」+「時間通りつかないし、もう約束の時間は過ぎている」+「まさか明里はもう待っていないだろうし、もう待っていてほしくない」+「でももしかしたら0.0000000000001%くらいの期待値で明里はいるんじゃないだろうか」+「明里に申し訳ない」というような考えが、「悪意を持った」時間の中でグルグルとめぐっていたはずだ。

そして、ようやく岩船に到着した時、貴樹だってもう明里は待っていないし、もう二度と会えないということを受け入れていたのだと思われる。改札まで急ぐ描写がないことからその「あきらめ」を推察できる。

しかし、そこに明里はいたのだ。その時の貴樹の感情はどんな風にバグったのだろうか。計り知れない衝撃だったはずだ。
あれほどの大雪で、あれほどの寒さのなか、あれほどの時間が過ぎてもまだ自分と会うためだけに待っていてくれた明里。おそらくこの瞬間、貴樹の中で明里は「聖女」になったのだ。
そして一晩を共に語り合い、そのー本来は存在しないー「聖女」は現実に存在するという実感を得てしまったのだ。

ここから貴樹は「コスモナウト」そして「秒速5センチメートル」の中で、現実にいる女性ではなく、存在しないはずの「聖女」を探し始める。それは「コスモナウト」で描写される、知らない惑星にいる少女に代表され、それを探す貴樹自身は「水素原子1つに出会うことすら稀」な宇宙の暗黒を「世界の秘密に到達する」ためだけに飛び続けるロケットに代表される。

ここの「聖女」を見て探し続けてしまうことが、「ひまわり畑少女」概念を持つ「我々」の心性と非常に近いため、強く共感し、高く評価してしまうのだ。

「一般人」は、世の中に「聖女」などいないことを早々に理解し、ひまわり畑に少女はいないことを受け入れる。
ひまわり畑はインスタ映えのスポットでしかないと見切り、白いワンピースは量販店で売られている中国製の製品であることに納得する。

しかし「我々」はそうではない。この世の中にはどこかに「聖女」が、どこかに「あの」ひまわり畑はあるのではないだろうか、どこかには麦わら帽子をかぶった白いワンピースを着た「あの」少女がいるのではないかと期待して、追い求めてしまう。


それが、場合によっては「あの」少女の面影を求めてアニメ作品を見ることであったり、「あの」ひまわり畑を求めて取りつかれたように旅行し、風景の写真を撮影することであったり、VR世界で「あの」ひまわり畑も「あの」少女も創る、あるいは自分自身がひまわり畑の「あの」少女に「成る」ことかもしれない。
だが、確実に「我々」は「聖女」を探している。それこそ、「世界の秘密に到達する」ためだけに飛び続けるロケットのように。

余談ではあるが、「ひまわり畑少女」概念をよく描いており、本質的には『秒速5センチメートル』と同じだと私が考えているのは、クジラックスの『わんぴぃす』、特に完全版のネームの作品である(R-18)。主人公をそそのかす連続女児強姦犯の「るっひ」は、恐らく好いていただろう少女ーしょん子ーが誘拐されてしまったことがトラウマとなり、凶行を重ねているようにみえる。「るっひ」はしょん子がいなくなったことを受け入れられず、しょん子を探して、その時に伝えられなかった本心=いつもからかっていたけど本当は好きだったという思いを伝えたいのだ。この「存在しないはずの人物を探し続けている」という点で「るっひ」と貴樹と「我々」は同じ穴の狢なのだ。まぁ、「るっひ」はR18誌である都合上、凶悪犯だしどうしようもないカスなのだが。

「我々」は「聖女」を探す貴樹を重ねて見てしまう。
いないはずの「聖女」を探して現実の人間なぞまるで眼中にない貴樹と「我々」は、秒速5センチメートルの速度で「聖女」に近づいたとしても、秒速5センチメートルの速度で「聖女」は離れていくのだ。

2、新海誠は何を描いてきたか

2-1、『君の名は。』以前

1は感情が抑えきれずに異常にポエティックになってしまったので、もう少し話を戻そう。
『君の名は。』以前、新海誠なにをどう描いてきたのかについて考えてみたいと思う。

私が見る所、新海誠は「人の思いは時間と空間を超越するか?」ということを問い続け、描き続けてきたように思う。

簡単に整理すると、新海誠の作品は以下のようなプロセスで進行する。
「きっとこのままこの関係はかわらないだろうな」という人間関係ーそしてそれは「人生最良の時間」であるーが描かれる(起)。
②次にその関係が不可抗力によって破壊される(起から承へ)。
③そして主人公たちが何かをすることで(承)、その関係、あるいは「人生最良の時間」が戻ってくるor戻ってこない(転結)
という描き方をするのだ。

顕著なのは第1作目の『ほしのこえ』だ。


この作品ではミカコとノボルという中学3年生の男女が登場する。彼らはこのまま高校に行き、大学に行き、なんだかんだとずっと一緒にいるだろうという予感を覚えていることがナレーションで語られる。しかし宇宙人の攻撃を受けていたこの作品での地球では、対宇宙人用の軍人を養成する必要があり、ミカコは対宇宙人用の軍隊に入ることになる。
何光年も離れた土地で戦うため、地上に残ったノボルやりとりをしようとしても、数年かけて届くメールという非常にか細い方法でしか繋がれない。宇宙の奥で戦うミカコと地上で待つノボルはそれでもお互いへの気持ちを切らせていないということを示して本作は終わる。

この『ほしのこえ』において、「人の思いは時間と空間を超越するか?」を問うために新海は物理的に2人を切り離した。
文字通りの意味で「時間と空間」を超越した位置でのやりとりから、(結末こそ描かれないものの)地上に残されたノボルは宇宙軍関係の仕事に就くことでミカコと再会しようと試み、「人生最良の時間」が戻ってくる可能性を示唆する。

もう詳細を書いていると何万文字あっても足りなくなるので、ここから先は分かる人向けにあらすじは省略する。

『雲のむこう、約束の場所』の場合、主人公たち3人は「飛行機を飛ばしてあの塔に向かう」という約束を交わす(=ここが「最良の時間」)が、佐由理が失踪し覚めない眠りに落ちる(=不可抗力による別れ)。バラバラになった3人だが、最終的に飛行機を作りなおし、完成させ、約束を完遂することで目が覚める(=「人生最良の時間」が戻ってくる)。


当然『秒速5センチメートル』は貴樹と明里が過ごした小学生時代(=「最良の時間」)が明里の引っ越し及び貴樹の引っ越しにより永遠に失われ(=不可抗力による別れ)、貴樹が上でいう「聖女」に囚われたせいで気持ちが通わず、踏切で振り向いても明里は待っていてくれない(=気持ちが通じ合っていないので「最良の時間」が戻ってこない)のである。

『星を追う子ども』は若干難しいが、最も遠い別れである「死」を経ても思いは超越するか?と解釈すべきだろうし、『言の葉の庭』の場合には40分に圧縮されながらも新宿御苑での交流(=「最良の時間」)→実は先生だったとバレる(=不可抗力による別れ)→階段での思いの吐露(=気持ちが通じ合う)→Cパートの「会いに行ってみようと思う」で不可抗力による別れを経た後に「最良の時間」の復活があることをほのめかすという構成になっていると解釈できる。


このように、新海誠は徹底して「人の思いは時間と空間を超越するか?」ということを描いていたのだ。

なお、Wikipedeiaによれば「デビュー作以来、「関係性が定まる前に相手を失う」という形で描かれる喪失感というモチーフを繰り返し用いている」と評しており、出典は「藤津亮太 (2022年10月28日). “瀧は本当に主人公だったのか?「非常に稀な経歴の監督」新海誠が起こした『君の名は。』という事件 (2)”. 文春オンライン. 文藝春秋.」となっている。
私の主張とまぁまぁ逆なので、私の解釈がおかしい可能性は十分ある。

そしてまた、「世界の秘密」という言葉を新海誠は多用する。その「秘密」とはなんなのか?作品によって具体的にはバラバラであるが、根本は同じである。つまり「人の思いは時間と空間を超越するんだという確信」である。例えば、『秒速5センチメートル』で貴樹が自分を重ねるロケットは「世界の秘密」に少しでも近づくために暗い宇宙を彷徨うというが、この段階で貴樹はまだ「世界の秘密」を知っておらず、「彷徨っている」のである。

「人の思いは時間と空間を超越するか?」という問いとその描き方のパターン、そして「世界の秘密」。これが『君の名は。』以前の新海誠作品の読み解き方のキーであると私は強く主張したい。

2-2、『君の名は。』以降

以上のテーマを書いてきた新海誠という見方をすれば、『君の名は。』は新機軸というには既存の作風から脱却できず、さりとて既存の描き方にしては弱すぎるという、どっちつかずの作品になってしまっていた。


夢の中での入れ替わりは確かに衝撃的であるが、これまでの「最良の時間」と同一と扱いには必然性が弱すぎる。電車の中で紐を渡されるシーンにしても時の輪に閉じ込められているに過ぎないし、逢魔が時まで二人は直接対面しないので、「最良の時間」の回帰というほどでもない。
しかし全く新しい書き方に挑戦しているというわけでもなく、正直な感想からすれば「最後にすれ違わなかったからOK」みたいな「大衆化」した新海誠だとしか思わなかった。

なお、「いつもはすれ違ってバットエンドだったのに今回は再開できてグッドエンドだったよね~」という感想をぶつけて来た知り合いにはティアマト彗星をぶつけて気絶させてやったぜ(余談)。

『天気の子』は私の中で最も評価が低いが、それは話の軸が2つあり、それが有機的に噛み合っていないからだ。
一方ではこれまで通りの「陽菜さんとの逃避行」→警察からの逃走と神による召し上げ→セカイを犠牲にしても再会、というパターンが展開されているのに、終盤で逃走するためだけにでてきた「銃」があまりにも邪魔過ぎる。


「逃走してその先に例の神社に行く」ために出てきた小道具であるが、あまりにもとってつけた感がすごかった。
また、「銃」に代表されるのが「若者の怒り」というこれまた陳腐な主張であり、結局「銃」は舞台装置とするには意味が乗りすぎており、かといって強力な主張というには絡んでなく意味がない。

加えて、冒頭に「これは僕たちだけが知っている「世界の秘密」についての物語だ」(若干うろ覚え)というが、ここでの「世界の秘密」とは、単に「陽菜を捧げなかったから東京はずっと雨です」という文字通りの意味になっている。

新海がこれまで示してきたテーマも、「世界の秘密」も失い、陳腐な「怒り」をくっつけた『天気の子』をどう高評価すればいいのだろうか?
「世界を犠牲にしても彼女を選んだ」というのがセカイ系的な文脈で評価される時期はもうとっくに過ぎているだろう?

ついでに言えば、「大人」の描き方が良くなかった。これは他の人はあまり言及していないので私だけが持つ感想だと思うので、話半分に聞いて欲しいのだが、須賀のキャラクター造形がどうしても受け入れられなかった。
須賀は「いい大人」でもなければ「悪い大人」でもない、「迷い悩む大人」であることは作中の端々から描写されていた。その意図は分かるが、こうしたボーイミーツガール作品における大人の役割は敵か味方のニ択だけでよいと思う。「迷い悩む大人」をキチンと回収できるなら描いてもいいが、『天気の子』ではそれに至っていない。

また、須賀の「悪い大人」の一部として給料を3000円しか渡していなかったところはもう意味不明だった。そんな描写をするならもっとしっかり極悪であれよ、と思ったのだ。なんというか「軽い」。
例えば、同じように諸事情あって家でした少年が「悪い大人」に喰いモノにされる描写がある作品として、重松清の『疾走』を挙げたい。


ここででてくる「悪い大人」は家出少年という足元を見て安い給料だけしか支払わず、さらにその給料すら他の従業員と一緒になって盗み回収していた。
このような、徹底して少年を喰いモノにしようというわけでもなく、さりとてキチンとした大人ではない須賀は、キャラクター造形として欠陥があるように思えてならない。

『天気の子』の視聴メモには以下にような言葉が書いてあり、それを抜粋する。

「この人は、大作みたいなのは多分本当に得意じゃなくて、半径1mのことと内面の悶々を描くことが得意。明らかに『言の葉の庭』に達していない。身の丈の映画を撮る人なのに、明らかに身の丈にあっていないサイズの映画」

こうした最近2作の展開のブレ、これまでの新海を見たら頭を抱えるような作品にも関わらず上がり続ける世間の評価。
やがて「私だけが『本当の新海誠』を知っていて、本当の『読み方』を知っている」と思うようになり、かくして私は「秒速原理主義者〈ラディカル5センチメーター〉」に成り果てたのである。

そして、『すずめの戸締り』がやってきた。

3、『すずめの戸締り』の感想(ネタバレ注意)

3-1、『すずめの戸締り』で新海誠は新海誠ではなくなった。

結論からいうと、『すずめの戸締り』は『君の名は。』『天気の子』で描きたかったものを完璧に描き切り、新海誠が映画監督として一段「上」のステージに到達した作品であると思う。
そして、この理解をするならば『君の名は。』『天気の子』の段階でその変化は始まっており、『すずめの戸締り』においてついに形を捉えたということができる。つまり、上で評したような「人の思いは時間と空間を超越するか?」という問いを立てることを、新海誠は既に『君の名は。』でやめていたということになる。

ネタバレありとはいうものの、できるだけネタバレにならない程度にあらすじを書いていく。

主人公のすずめは不思議な青年=草太と出会い、彼が「扉」と呼ばれる物体を「閉める」ことで厄災=地震を防いでいることを知る。そして、自分の行動が草太の活動を困難にしていることを知り、「扉」を占めるために旅をし、最終的に東京での大厄災=かつて関東大震災を引き起こしたモノが暴れはじめるのを止めようとして…、とこの辺までならギリ間違ってここまで読み進めてきても大丈夫だろう。

前2作に引き続いて大災害を中心として話が推進していく構造になっているが、今回は「地震」、そして冒頭に描かれる「ビルの上に乗っかった船」で現代日本人なら全てを理解するように、3.11を正面から描き切ったという点で一線を画する。現代日本において3.11を取り扱うということは、「本気で」災害や、社会全体のことを考えなくては描くことができないからだ。

ここで、本章冒頭で「人の思いは時間と空間を超越するか?」という問いを立てることを止めていた、という評価に繋がることがもうわかると思う。
つまり、新海誠の新たなテーマとは「大災害という突然やって来るすべて終わらせる制御不能の恐怖に人間はどのようにして向き合うべきか?/立ち直っていけるのか?」ということなのだ。

このテーマ設定は、『君の名は。』以前の新海が描いていた、人間関係と個人の体験を主とする「小さい」話から急速にスケールアップしているように思う。確かに描かれる事物も隕石・大雨・大震災ととんでもない大災害であるといえる。

しかし、ある意味ではこれまで新海が描いてきたものの延長線上にあるともいえる。2で説明した3段階の構造の②を強調したものともいえるからだ。従来作品では「不可抗力による別れ」というのが親の転勤であったり実は先生であることがバレるという程度の「小さい」ものだったのが、大災害による社会全体の大きな変化という規模にスケールアップともいえるのだ。

そしてまた、問題設定が変わっても、本質的な部分の一つである「世界の秘密」を追い求める物語であるという点も変わりはない。
『君の名は。』以前における「世界の秘密」というのは、「人の思いは時間と空間を超越するんだという確信」であった。
『君の名は。』以降、文字通りの意味の「世界の秘密」=タイムリープ・雨を降らせる神と呼ばれる震災を起こす存在、を描くだけではなく、問題意識と対応して真の「世界の秘密」を描こうとしてきた。

『君の名は。』では「人とのつながりとは時に全てをひっくり返すだけの可能性を秘めている」ということであり、『天気の子』では「世界を犠牲にしても一人を救うことは意義のある行為だ」ということであった。
しかし、こうした「世界の秘密」を描こうとしても、従来の作風や問題意識が上手く接続されておらず、映画としての出来はシンプルに良くなかったため、これまで新海を見て来た人々からすると「新海はかわっちまったな~」という評価が下されるに至ったのだと今では考えている。

さて、それでは『すずめの戸締り』における「世界の秘密」とは何か?
文字通りの意味での「世界の秘密」とは、常世の国と呼ばれる死者の国から漏れ出てくる「ミミズ」と呼ばれる存在が地震を起こしている、ということになる。まさしくこの「ミミズ」を調伏すること(封じる時に神道の祝詞を唱えていることからまさしく「調伏」だといえる)が『すずめの戸締り』の物語的な推進力であり、関東大震災を起こした「ミミズ」を封じても最後に向かうのは、全てが津波で押し流された気仙沼であった。

これは余談であるが、3.11で被害を受けた地域に行くと、とても綺麗で清潔感のある場所になっていることがわかる。私は仙台から(石ノ森章太郎の記念館に行きたくて)石巻まで車で2時間、ドライブしたことがあったが、海岸線に沿った道路は本当に綺麗に整備されている。
当たり前である。見渡す限りの全てが押し流され、草1本残っていなかった場所なのだから。ヒトもモノもただ何もなく、何も生きておらず。新品のコンクリートで固められて「綺麗」になっているからだ。

では、もう一つの方の「世界の秘密」とは何だったか。それは、道中で描かれるように「人との繋がりこそが災厄を防ぐことこそできなくても立ち向かう力になる」ということであり、もう一つ、ラストに言うように「未来に希望を持つ」ことである。

特に最後の「未来に希望を持つ」という「世界の秘密」を描いたことで、『すずめの戸締り』は前2作とは決定的に異なる完成度を得た。いや、むしろ前2作ではこの「世界の秘密」を、新海本人が掴めていなかったからこそ微妙な出来になったのだと考えている。

これほど前向きで、ある意味では青臭い「世界の秘密」を描き出せるほど、以前の内面に向かっていく新海誠から進化して、一段上のステージに昇ったということができるのである。

まだ見終わったばかりで整理しきれていないが(これを書いているのが21時、見終わったのが17時半である)、『すずめの戸締り』は前2作で不発だった問題意識の転換を完成させたという点でこれまでの新海作品と決定的に異なる一作として評価してよいだろう

3-2、細かい雑感など箇条書き

以下は細かい雑感の箇条書きである。

・やっぱりフェチがおかしい
・・・足フェチなんでしょうねぇ
・「うそでしょ!?」というセリフが多すぎる
・・・巻き込まれ型ヒロイン可愛いよね
・作画が相変わらずすごい
・・・冒頭0.5秒から新海空(赤紫の空とキラキラ輝く星)でぶん殴られる
・・・常世、若干過去作の「惑星アガルタ」や「地下世界アガルタ」や貴樹の夢の惑星っぽい
・しょーもないギャグがシリアスな所のわりに面白い
・・・緊迫する直前に脱力してしまう

やや真面目な雑感を最後に一つ
・このままの進化で細田みたいな「ゆるふわファシスト」になってしまわないか?
・・・まず前提となる評価として、細田の『サマーウォーズ』が私は嫌いで、その理由は「ゆるふわファシズム」「草の根ファシズム」「やわらかい●●制の無条件全肯定」ということがある(右翼に刺されたくないから明言しておくが、別に私は●●制廃止論者とかそういうことではない。ただ、ファシズムと結びつきかねない描き方で描いてしまうその無自覚性にあきれ返っているだけである)
・・・今回新海が到達した「世界の秘密」が「人々とコミュニケーションをとって繋がり合い、未来に希望を持つことで大厄災すら超え得る」というものならば、ここからまた内面的な方向に戻ってしまうと「家族万歳!」みたいな方向に振れる可能性があるかな~と思う。それはそれでキケンな兆候だな~と思う。

まとめ

ここまで新海誠作品のパターン、これまで描いてきたものを整理しながら、『すずめの戸締り』は新海が新たなステージに立った作品であることを解説してきた(最後の雑感は除く)。

明らかに新海は「国民的映画監督」の肩書にふさわしい監督となり、もはや『秒速5センチメートル』の時のように鬱々とした内向きの「我々」に向けた映画を撮る人物ではなくなったといえよう。

そこに若干のさみしさはあるが、これからも彼の生み出す作品と、彼が見つけた「世界の秘密」を楽しみにしたいと思う。

それではこれd・・・
「おい」
…?空耳か?
「オレだよ、オレ」
だ、誰だ?
「お前の『本心』だよ」
なにが本心だ。私は進化した新海誠の作品を真面目に解説してただけじゃないか!
「嘘つけ。お前、最近TLにアニメ批評とかやってるヒトたちがいるからって言って、ちょっと憧れてマネして、あわよくば読んでもらおうってゴマすってるだろ?」
そんなことは…
「いーや、お前はまだ語ってない『本心』があるだろ?お前が『すずめの戸締り』見て、ショックで立てなかったところ、オレは見てるんだぜ…」
そんな…こと…
「ほら、いっちまえよ。『すずめの戸締り』の最後のシーンで、電車から降りてすずめを草太が抱きしめた所で、お前放心状態だったじゃねぇか。な?どうせこんな場末のnoteなんざ誰も読まねぇ。アニメ批評やってる連中だって読まねぇんだ。言え、いっちまえよ。言えってば。さぁ今すぐ言え!『本心』はなんだ!!言えぇ!!!

そうか…ならいうよ。言うしかないだろ…


てめええええ!!!新海!!!お前ふざけんなよ!なんでお前まで「大人」になってるんだよ!!!クソ!!クソクソ!!おい!

思えばなぁ、あのクソ庵野だってそうだったよなぁ!えぇ?庵野てめぇ、てめぇのせいでオレたちはシンジくんになって、シンジくんだったのによ!なーーーにてめぇが勝手に鬱抜けしたからってよ、「ま、オマエらシンジくんもさ、そろそろさ、大人になってさ、こう、なんだろうな~。そう!農業とかやってさ、結婚してさ、もうそういう感じだろ、な?昔オマエが反抗したがってた「オヤジ」ってのも、なかなか大変なもんでさ。な?イマノトシになったらわかったよ。だからお前も「オヤジ」を理解してやってさ、和解しようや、な?ヨシ!じゃあお前も農業、やろうw」みてぇねよぉ!クソみてえなメッセージでエヴァ終わらせて、「これが『シン』の大人の作品だ」みてえなツラで「シン」シリーズ創りはじめたよなぁ!

じゃあ新海お前もさぁ、お前ももう「大人」になったのかよ!!!「未来に希望を持つ」だぁ!?てめぇも結婚して子どもができて?えぇ?幸せ万点の正解家族まで持って?だからこんな名作が創れたんですよ、ってか?

最後のさぁ、電車から降りてすずめを草太が抱きしめてさぁ、「また会おう」的なこと言ったじゃん。あれ、『秒速5センチメートル』のオマージュだよな?あれ見た時もう『秒速5センチメートル』の新海誠は死んだってはっきりわかったよ。
なんだ、アレか?オレが乗ってる電車の扉越しに新海お前が「キミはもう僕の作品がなくても大丈夫だから」ってか?

ダメだよ。まだオレには新海の作品が必要だよ。大人になって置いて行かないでくれよ…
お前がオレを貴樹にしたんじゃねぇか…お前のせいでオレは水素原子1つに会うことすら稀な孤独な旅に放り出されたんだぞ?なぁ、お前のせいでオレは貴樹のままだよ。
オレにはまだこの感情に蓋して鍵かけて、「お返しします」なんて、いえないさ、まだな。
でもさ、オレが鍵かけられたら、そう、次回作が発表されるくらいまでにはさ、鍵かけてお返ししておくから、そん時は「おかえり」って、いってくれ、な。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?