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【短編小説】 不在票

その日は少しばかり肌を湿らす雨が降っていた。

2ヶ月ほど前は多少遅い時間でもまだ日の明るさを感じていたが、もうすっかり暗くなり、駅前で騒ぐ人たちもすっかり秋の装いを見せている。

仕事でくたくたの体を動かしながら、最寄りの改札を抜けると明るいネオンの看板が見えた。疲れたから今日はいいかと自分を甘やかし、駅前のコンビニで惣菜と350mlの缶ビールを買って帰路につく。

ただいまと声をかけてから、誰もいないことに気づくのはいつものことで、もう当たり前のように誰かがいた日々ではないとわかっていても、癖になっているのだから仕方がない。

自分の声だけが響くワンルームは少しさみしい。

自分以外の体温を感じられないこの部屋でこれからの季節をどう過ごしていこうとしんみりとした気持ちになる。

仕事で張り詰めた体を緩ませながら、会社用のバッグを下ろし、ポストに入っていたチラシや公共料金の知らせに目を通す。

私のもとへ届いたそんな温かみのない文章たちはまるで、ただいまの返答代わりのおかえりのように感じられた。

そのおかえりたちを必要なものといらないものに分けていると、一通の不在票が目に入った。

***

次の日受け取った荷物の差出人の欄を見ると、付き合っていた恋人の名前が記されていた。

「時間や日にちくらい考えてくれればいいのに」

そんな些細な小言を呟くと、そういえばそんな気持ちだったな、と別れ際の彼に対して思っていたことが懐かしくなる。

あの頃は恋人だから会っておくか、なんてなげやりな気持ちで物理的な距離だけを縮めておいて、心の近さを感じることは以前に比べ少なくなっていたように思える。

とりあえず届けばいいやと送られた荷物は、相手の都合や気持ちをを考えない彼の不満の表れでもあった。
 

そんな鬱屈した思いを沈め、荷を解くと、
懐かしい匂いが嗅覚を突き刺した。

においと記憶は密接につながっている、と昔読んだ本には書いてあったけど、たしかに
においは懐かしい感情を思い起こす。
場面は思い出せなくても、当時のことをふわふわと心に感じさせる。

土埃と汗が混じったにおいは青春と呼ばれた日々の中に存在していた野球部の彼らの熱さを胸に感じ、こってりとしたラーメンの香りを嗅ぐと、好意を寄せた人が見知らぬ女性と歩いていたのを見た帰り道の苦しさを感じさせる。

同じように、荷物から放たれた匂いは、以前付き合っていた彼のことを思い出させた。

私はあの人の匂いが好きだった。

今思うと柔軟剤の香りだったはずだが、彼から発せられるそのにおいには暖かい春の日曜日のような安心感があった。


ただ、今その匂いを嗅いでも以前の安心感を感じることはできないし、後悔のかわりに涙が頬をつたうこともない。

当日受け取れなかった荷物のように、もう彼の気持ちがそのまま私の心には届くことはないのだ。

送られた雑多なものを適当な場所にしまい込み、受け取れなかったことを示す不在票と、もう感じることのない安心感をゴミ箱に捨てる。

”さよなら”と過去の2人につぶやきながら、身支度を整えて、”行ってきます”と誰もいない部屋を1人で飛び出した。

2019/10/20


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