“衝動性”について。

※2022年3月28日執筆。
 
 
双極性障害の症状としての衝動性と、発達障害(ADHD)の特性としての衝動性の違いについて。


なぜ、この年になって発達障害の検査を受けたのかというと――私はあと3週間後に40歳になるのです!随分とまあ、未熟な四十路です。自分で言うのも情けないですが、子どもおばさんですね。分別の付かないワルガキよりよっぽど質が悪いかもしれません――双極性障害と発達障害(とくにADHD)に共通の「衝動性」や「注意力の欠陥」に関して、その原因が異なると治療あるいは療育等、診療の方針が変わってくるからです。

原因が違えば、投薬も、気をつけなければならない点も違ってくるので、本気で良くしたいのならば、はっきりさせておくべきだと判断しました。


※治療→病気の回復・進行防止等のための医療行為。

※療育→障害による生活上の困難を改善するために行う医学的・教育的支援。(主として精神科領域における知的障害者と発達障害者への支援を指すことが多い。)

  
とりわけ衝動性について。

双極性障害でもADHDでも、同じ「衝動性」という言葉で表現されていますが、この2つの衝動性(衝動的な言動を取りやすい性質)の原因は全く異なります。

どちらも脳の機能障害と考えられていますが、


双極性障害の症状として現れる衝動的な言動は、心理状態が病的にハイな状態(躁状態)で且つ理性による感情の正常なコントロールが困難な状態にあるときに現れます。

他方、ADHDの特性としての衝動的な言動は、ひと呼吸置いてから考えて行動するということに(器質的な)困難を抱えているために、何らかの考えや感情が生じたときに(基本的にはそれ以前のテンションの高低とは別に)、思いつきのまま取ってしまうものです。


※ここからしばらく脱線します。

ただ、これは飽くまで専門として学んできた精神保健福祉(精神医学の基礎を含む精神障害者福祉)の知識とスキルと個人的経験を基にした“私見”ですが、そのどちらも、極端な場合を除いて、本人が冷静さを全く欠いているわけではない、と私は考えています。

理性が全く欠如しているならば、その人はもはや完全なる狂人でしょう。

理性の強さは個々人で異なっていても、少なくとも僅かながらに頭のどこかに冷静に自分自身を見つめる眼を持ちながら、それでも衝動性が強すぎて、衝動に付き動きされて動いてしまう、ということです。

逆に言えば、その幾ばくかの理性があるからこそ、治療や療育、カウンセリング、周囲の人たちの理解や協力、環境の変化等によって、理性による感情のコントロールの仕方を身に着け、「ある程度は」改善していくことができる。


一応、社会福祉学部卒業後もずっと、動けない今でも精神医療福祉に関しては、じわじわアップデートはしています。大学で教えている(飽くまで勉強不足の)教員に足りていない専門知識も幾らかはあります。それも、決して威張れるレベルではないことは承知しているのですけれど。

私には絶対に精神医療福祉の問題に取り組まねばならない理由があり、本当にささやかな、努力とも言えない努力ですが、例え病状が芳しくなくともその最低限の努力だけは苦だと感じたことはありません。

本当に、本当に、ささやかな努力でしかなく、羞恥心と劣等感甚だしいことこの上ないのですが。それでも敢えて、この恥を晒してでも言いたいことがあるのです。

他はほとんどが苦になり得るものですが、どうしても私自身変化と成長を繰り返して、いつか、1日も早く、全力で取り組むと決めていることがあります。

無論、私の“専門性”など、極めて不十分で、偏りも多いと自覚しています。私の人間性も、未熟という言葉が生易しいくらい大変未熟なものです。


けれど――私の知的能力がどれほど極端に低くとも、努力も実力も何もかもが足りておらず、専門家としてどこの施設や団体にも属しておらずとも――専門家であると名乗るに恥じないようになることを目指す者の視点から見ても専門家に支援される者の視点から見ても、モグリとしか考えられない、少なからぬ専門家よりは、私のほうがまだマシだと、傲慢勘違い野郎だと思われることを承知の上で、言えます。(もちろん、そんな人たちより“自分のほうがマシだ”と言ったところで何の自慢にもなりませんがね。)

なぜなら、精神医療福祉に関しては日本は他先進国よりも50年遅れていると言われていた昔より、未だにそれほど大きく変わっていないからです。それくらい酷い現状が続いています。


専門家を名乗る人でまともな人間のなんと少ないこと。

まともに自身の生活を自力で送ることすらできない私が、こんなことを言っても何の説得力もないことは指摘されずとも明白ですし、学術論文のような形で正当に専門的な形で論述する体力もないので、これを読んだ人に「なんて恥知らずな奴だ」と、鼻で嘲笑われることも承知の上なのですけれどね。


しかしながら「病気や障害に起因する衝動性を持ち、実際に衝動的な言動を繰り返し取ってしまう人にも、理性はあり、その理性を鍛えたり、治療や療育によって衝動的な言動を回避するコツを身に着けることは“ある程度”可能」だということは、言っておきたい。

衝動性を抑える理性の訓練や、病気や障害の症状や特性が原因になっている問題行動を回避するコツを身に着けることは、途方もなく難しく、長い時間と多大な労力がかかり、様々な支援や多くの協力なしには遂行困難であることも事実です。

問題行動を繰り返す当人を一切責めるな、とは言いません。(でも、理解はしてほしい。)

反対に、当人に対して問題行動が完全に無くなるまで頑張り続けろとも言いません。(それができたら器質的な病気や障害はこの世から無くなります。その確実なメソッドを考案できればノーベル賞ものです。) 

ただし、ある程度までは軽減させないと、自分にも周りの人にも大きな不利益が生じ続けるだけなので、やはり改善の可能性がある範囲では個々人のケースによって度合いは変わりますが、改善することを目指さねばならないと思うのです。

周りの人も当人自身も、改善可能であることを信じて、その人にできないことが多くても、その人が問題行動を取ることがあっても、“一人前の人間として”扱ってほしいと強く願います。



この願いは、とくに「精神病者には理性がない」とテレビで堂々と言い放った社会医療法人北斗会さわ病院の職員と、その発言や職員の患者に対する態度や入院患者の扱われ方に何の疑問も抱かずに、その場面をそのまま放送し、実際に存在する非常に非人道的な病院内施設だけは一切映さなかった、テレビ朝日のドキュメンタリー(笑)番組の製作者と、そのドキュメンタリー(笑)番組を「勉強になる」と真剣に頷きながら信じて見ていた大多数の専門家と、非専門家の人たちと、そしてさわ病院の存在自体すら知らなかった人たちへ。

さわ病院が数十年もの間に渡って、殺人や暴行、超長期に渡る不当な強制入院、薬漬け、同意なしに電気ショックを行ってきたことが、2013年に明るみになるまで、さわ病院の実態を冷静に語っても「精神障害者の妄想だ」「お前は精神病じゃない。性格に問題がある」「あなたは神経症です」と“専門家”である精神科医や精神保健福祉士や心理学者や弁護士その他大勢から言われ続け、その結果、2003年に不当な強制入院をさせられた際に仲間を見捨てて自分1人だけが助かってしまったにも拘わらず、自分の保身のために、もはやさわ病院の実態を誰にも言えなくなった、事件の当事者の1人であり、専門家と名乗りたくとも名乗れなかった情けない人間でもある者からの、お願いです。



閑話休題。

双極性障害では、ハイテンションな感情や攻撃的な感情が先にあって衝動性が発揮されますが、ADHDでは、まず思いつきが先にあって、その後にハイテンションな感情や攻撃的な感情が生じ、衝動性が発揮されます。

ということで、内省することも含めて、治療ないし療育のために、自ら抑えきれない衝動性が精神疾患によるものであるのか、発達障害によるものであるのか、それともその両方なのかを、私自身と私が診療を委ねている主治医が知ることが重要だったわけです。


検査結果では、私はASDと軽いADHD。

◉ASDはとにかく特定の物事への拘りが強すぎたり、日常会話でのコミュニケーションにはあまり支障がないものの、独特な言葉の言い回しが目立つ。

◉口頭で物事を具体的に説明する際に、堅苦しいと思われるような言い回しをする。起承転結に拘りすぎて回りくどいのを、どう頑張ってもなかなか改善できない。そのせいで話がやたらと長ったらしくなる。


でも、対面での会話や通話での声だけの会話でも、相手の様子を見ていないわけではないので、自分の話が長くなった際に、相手に関心がなさそうだったり、上手く伝わっていなさそうだったり、相手からの関心の有無に関係なくとも、話し過ぎだと思ったら、その時点で途中で話すのを止めることはできます。(それでも、その時点で既に長話になっていることが多いので、話を止めた後に自己嫌悪から精神状態が不安定になります。)

相互的な「対話」や「議論」の場合は、お互い順番に話す、お互いに相手が話しているときに遮らない、お互いに相手の発言内容の意味や意図を確認する、という協力関係にあるため、元から「対話」や「議論」をすることが前提となっている場面の意見交換に関しては、障害とは本来関係のない努力不足や未熟さが障壁となることはあっても、発達障害の特性それ自体による弊害は小さいようです。


◉ただ、健全な人間関係を維持するのが困難な要因の大部分は生育環境によるものである可能性もあるが、言語によるコミュニケーション以外のASDの特性が要因となっている可能性も大いにある、と。

→つまり、他者との適切な距離感が分からなかったり(所謂「空気を読めない」ということ)、友好関係の維持が億劫で自分から連絡を避けて離れたり、自分から能動的に接しに行けなかったり、逆に引き際を心得た上でその場で適切な行動を取ることが苦手だったりする。

結果、初手から人間関係の構築に躓いてしまう。

友好関係が薄れる。

ある種の人との繋がりが最初から濃すぎる(お互いの経験や環境や感情に共鳴し合って共依存に陥りやすく、共依存が続いた結末として盛大に罵詈雑言を吐かれて関係が破綻する)。

適切な振る舞い方が分からないために相手に悪印象を持たれる(用事が終わっても帰っていいのかどうか分からず、体が固まってしまって黙ってじっとしている私に相手が不快感を持つ等)。

その大部分は、確かにASDの特性が要因になっているだろう、とのこと。


他にも、

◉主に倫理的なことや思想的なこと、習慣に関する拘りが強く、他者の多様性を認めてはいるが、ある特定の部分で倫理的に問題があると(私が)感じたり、善人ないし偽悪人ぶっている(ように見える)相手に対話の姿勢が微塵も感じられないと(私が)感じる人に対して、強烈な不快感を覚えてしまう。

◉言葉のニュアンスの捉えられ方が少しでも不正確であることが非常に耐え難く、お互いに可能な限り正確に理解できるまで様々な言葉や方法を駆使して、延々と話し合いたくて仕方がない。

◉何か特別な事情がある以外で、相手が対話を望んでいないことを受け入れることが難しい。受け入れたふりをして対話を止めても、しばらく気になって仕方がなくなる。

※この独特な話し方で、あまり突っ込みすぎると相手に嫌われてしまうのはもう身に沁みて分かっているので、ある程度試みて相手に全くその気(腰を据えてお互いに根気強く対話する気)がないと悟ったら、途中でグッと堪えて止めるようにできるようには努力しています。


ADHDに関しては、まだ検査を担当してくださったカウンセラーさんから詳しい話を聴いていないので、多くのことは分かりませんが、主治医の話を聴いた感じでは、

◉衝動性については、双極性障害の症状によるものが大きく、ADHDは少しあるかな、でも生育環境が過酷だったからそれが要因でもあるのかな、という感じ。

◉はっきりしているのは、集中力が欠如しているときと過剰に高いときの差がものすごいこと。注意力が低下しやすく凡ミスが多めであること。

◉私のADHDが原因の一番の困難は、「いつまで待てば良いか分からない状況で待つということが極端に苦手で、そのような場(病院の待合室等)でじっとしていられない。

あまりの苦痛で具合が悪くなり、途中で帰ろうとして、受付の人に止められる。

かかりつけの内科では座って待つことに困難を抱えていることが周知されているので、その内科にかかるときにはベッドに寝かせてもらって診察待ちをする。」

こと。


ちなみに今のかかりつけの心療内科は、1時間単位でごく少人数の予約を受け付けているので待ち時間がほとんどなく、また、待合室のインテリアのコンセプトが「森の中に建つ温もりのある小屋」で、木目調のブラインドカーテンに木漏れ日をイメージしたオレンジの照明と、緑を基調とした床に、座り心地を考えた椅子とソファー……という非常にリラックスできる場所なので、他の病院には通院介助がなければ行けない私でも、気軽に1人で通える病院です。

さらに、それほど長く話さなくとも、主治医と話すと必ず心が軽くなることが経験的に分かっているので、多少具合が悪い程度なら往復1時間歩いてもほとんど問題なく通えています。

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