みんな、死んでしまった

赤毛の彼女

ガジアンテップ。そこには私にとっての全てがあった。

今から7年前、初めてその街を訪れた。なんの特徴もないトルコの地方都市。なぜ訪れたのかも覚えていない。1泊だけして別の街へ移る予定だった。

しかし偶然入ったカフェで、ある女性と出逢った。赤毛に青い瞳の彼女。イスラーム色が濃い街において、赤毛を惜しみなく露出させる彼女は、異色の存在だった。

彼女と目が合い、自然と会話が生まれた。保守的で退屈な街に辟易していた彼女は、遠い異国から来た旅人に興味を持った。

お互いの境遇を話しているうちに、世俗主義を地で行く彼女と、気ままな放浪旅を続ける私は、自由と堕落を愛するもの同士、意気投合し、ラク(トルコの地酒)を酌み交わした。

彼女の名前はケズデ。弁護士の父親と教師の母親の元に生まれ、イズミルという地中海に面した陽気で開放的な港町で育ち、医学部に通うためこの街で一人暮らしをしている。

そんな彼女からお酒を飲んだ帰り際に「気に入った。行く場所がないなら私の家に住んでいいよ」と言われた。この街に長期滞在する理由は無かったが、かと言って他に行く当てもなかったので、彼女の言葉に甘えた。

彼女は大学の授業で忙しく、平日はほとんど家にいなかった。だから私は一人で街に出た。

何の目的もなく街を歩き、出会った人と雑談を交わす。ただ漠然とそれを繰り返すうちに、行きつけの店と顔馴染みがそこら中にできた。

ケバブ屋に行くと、店主がいつもアイラン(トルコのヨーグルト飲料)をおまけしてくれる。

シーシャを吸いに行くと顔馴染みのおじさんたちが談笑の輪に入れてくれ、公園に行くと子どもたちがサッカーに入れてくれる。

大学終わりにカフェで、彼女とその友達たちとお茶をしながら、トルコの女子大生の恋バナを聞かされる。最終的に「あなたも含めて男はクソ」と言われて解散するのが定番だった。

取るに足らない日常の一コマかもしれないが、この街には、東京での機械的な生活や希薄な人間関係と異なり、人間同士の繋がりやそれぞれの人生が垣間見えた。

あそこに行けば、あの人がいて、他愛もない話ができるという状況が、コミュニティへの帰属意識と、その中で循環しているという感覚を初めて与えてくれた。そして、自己と他者とを媒介する中で、人間存在の意味を考えるヒントをくれた。

だからガジアンテップが好きだった。

そしてこの街と同じくらいケズデのことも好きだった。彼女は、地中海沿岸で育った人間特有の向日性と解き放たれた感性を持つ、豪放磊落な女性だった。

私がシリアの国境付近で、イスラーム国の外国人戦闘員疑惑をかけられトルコ当局に拘束された時、彼女は電話で、私が如何に変わった人間で、如何に暴力と無縁な存在かを代弁してくれた。

彼女の必死の説得もあり、テロリスト疑惑は晴れた。しかしこんな場所に外国人がいるのはやはり理解できないと言われた。そして「Are you James Bond?」と聞かれ、テロリストの次はスパイ疑惑をかけられた。

再度彼女に説得してもらおうと警察官へスマホを渡すと、ものの数秒で返された。「もう終わったの?」と私が彼女に聞くと、「あなたがスパイかどうか私は分からない。だけどもしあなたがスパイだったら、それはそれでスーパークールよ」と言い残し彼女は電話を切った。

そんな彼女の屈託のない人間性が嫌いではなかった。彼女は、いつも斜に構えて穿った見方をしていた私に、世界を真正面から捉えることの素晴らしさを教えてくれた。

結局彼女の家に2〜3ヶ月ほど居候し、ビザが切れる直前に日本へ帰った。空港行きのバスに乗る直前、彼女が私の耳元で「you are funny and genius」と囁いたのが今でも忘れられない。

ただ私にとってこの街が特別なのには、もう一つ理由がある。

イスラーム教の学校


ケズデの家に住み始めて2ヶ月が経った頃、いつものように公園へサッカーをしに行くと、見知らぬ男たちに絡まれた。

彼らはアラビア語で執拗に、私がイスラーム教徒か聞いてきた。

私が違うと答えると、物悲しげな表情を浮かべて去っていった。しかし数分後、再び私のもとに戻り、今度は「私たちの学校に来ないか?」と誘ってきた。

「怪しい」と「面白そう」という対立した二つの感情が沸き上がり、頭の中で好奇心と恐怖心のシーソーゲームが行われ、好奇心が競り勝った。

10人ほどの男に囲まれながら、15分ほど歩くと、古びた雑居ビルに着いた。中に入ると、立派な口髭を貯えた恰幅の良い中年男性が現れた。彼は当時ニュースでよく見たイスラム国の戦闘員のような風貌をしていた。

彼は流暢な英語で、ここがシリア難民が下宿するイスラーム教の学校だと教えてくれた。そして一室にみんなを集め、私のためにコーランを歌ってくれた。その後、みんなでチャイを飲み、談笑し、解散した。

狐につままれたような体験に、頭の中の整理が追いつかないまま再び彼らに会うことはなく帰国した。

しかし、「シリア難民が下宿するイスラーム教の学校」という、好奇心を掻き立てる単語の組み合わせが忘れられず、期末試験の終わった1月末に、再度ガジアンテップを訪れた。

彼らの学校の住所はおろか名前も知らない。数ヶ月前、彼らと出会った公園から、残された微かな記憶を辿っていく。

ガジアンテップの街並みは、画一的で何ら特徴がない。どこを歩いても古びた集合住宅に、違いのないケバブ屋、オスマン建築を継承するドーム型のモスク、無機質に整備された公園が繰り返される。

方向感覚が失われる街並みに、二度とあの場所には戻れないと感じたが、なんとかあの古びた雑居ビルの前に辿り着いた。

彼らが私を覚えているか少し不安を覚えながら、しかし好奇心の赴くままにドアをノックした。すると顎に立派な白い髭を貯えた、恰幅の良い初老の男性が現れた。

彼は、「例の日本人かな。良くまた来てくれた」とすんなり私を迎え入れた。私は彼を知らないが、彼は私を知っていた。以前私がこの学校を訪れた話を生徒から聞いていたようだ。

彼の名前はムハンマド。この学校の代表だ。

ムハンマド先生は私の再訪をとても喜び、生徒のいる部屋へ私を案内してくれた。私がその部屋へ入ると、彼らは私の名前を呼び、挨拶のハグのための列ができた。

ひと通り挨拶が終わると、ムハンマド先生からどれくらいこの街に滞在するか聞かれた。

私が2,3ヶ月と答えると、先生は「君は人気者だ。好きなだけこの学校にいてくれ」と言ってくれた。

願ってもない申し出に感謝し、私はガジアンテップのイスラーム教の学校で暮らすことになった。

古びた雑居ビルの2階を教室、3階を居住スペースとして使用している小規模な学校。そこに12歳から20代前半までのシリア人が20人ほど、親元を離れ下宿している。

彼らの出身は、アレッポ、ハマー、イドリブ、ホムス、パルミラなど様々。彼らは2011年に勃発した内戦の戦火や、イスラーム過激派組織「イスラーム国」の脅威から逃れ、トルコに辿り着いたシリア難民たちだった。

先生は2人で、40代と60代のダブルムハンマドがイスラーム教や歴史、数学などを教えている。

学校のタイムスケジュールは、イスラーム教の1日5回のお祈りに連動しており、夜が明ける前、当番の者が唱うアザーン(礼拝を呼びかける歌のようなもの)で起こされ、祈祷室に皆が集い、神へ祈りを捧げる。これが1日5回繰り返される

私はイスラーム教徒ではないし、いかなる宗教も神も信じていない。しかし郷に入れば郷に従うことの楽しさをこれまでの人生で体現してきたので、迷うことなく彼らの真似をした。
この学校ではたいてい誰かが、壁に向かって正座しながらコーランを暗記している。だから私も彼らに習いながらコーランを暗記した。

1日5回も祈っていると3日目には、祈りの作法とコーランの第1章「アル=ファーティハ」を完璧にマスターできた。

また、この学校で英語を話せるのは先生の2人だけだったが、人間の適応力とは優秀なもので、数日間同じ生活を送っているとお互いの言語をそれとなく理解できるようになり、彼らのコミュニティに難なく溶け込めた。

アリは、アサド政権軍の空爆で建物の下敷きになり、右の足首より下が無かった。しかし彼はそんな自分の境遇を、いつもジョークの道具に使っていた。

PK戦で義足を外した状態でボールを蹴ろうとして転び、「右足切断してたんだ」と自分で自分にツッコむ。これが彼の一番の持ちネタだった。みんなは大爆笑だが、あまりのブラックユーモアに私は全く笑えなかった。

アハマッドは、他者への優しさと自分への厳しさを持ち合わせたリーダー的存在だった。いつも人懐っこい笑顔で私をサポートしてくれた。

だけど彼は、iPhoneを見ると性格が変貌する。

私がiPhoneを使っていると彼は不機嫌になり、私からiPhoneを奪って投げ捨てるフリをする。彼に理由を聞くと、「アメリカに空爆されてたくさんの人が死んだ。日本人ならソニーを使え。Hiroshima、Nagasakiを忘れたのか?」と言われる。

彼だけではない。この学校の生徒はたいてい、アメリカもロシアも嫌いだった。理由は単純。爆弾を落とされたからだ。その日以降、彼らの前でスマホを触るのをやめた。

マリクは学校の最年長。だけどよく授業をサボって、近くに住む幼馴染とつるんでいた。真剣にイスラーム教を学ぶ学生が多い中、彼のちゃらんぽらん加減は際立っていた。

そんな彼とは落ちこぼれ同士、馬が合い、彼の幼馴染と3人でよく公園に屯していた。

ある日、彼の幼馴染が学校に来てみんなに何かを伝えた。するとマリクが突然彼の胸ぐらを掴み、二人は取っ組み合いになった。

どうやらマリクの幼馴染は、シリアへ戻り反体制派の兵士として戦うと伝えに来たらしい。彼は「故郷を守るために戦いに行く」と言っていたが、マリクは「違う、お前は死にたいだけだ」と言った。

幼馴染が泣きながら懇願しても、マリクは決して首を縦に振らなかった。それでも諦めない幼馴染を見て、マリクは捨て台詞を吐きながら出て行った。

マリクの幼馴染は、元々シリアの大学でエンジニアリングを勉強していたが、内戦勃発に伴いトルコへ逃げてきた。トルコでは大学に行けず、職もなかった。

誰からも必要とされず、将来の展望も見えない。だけどエネルギーと時間だけはある。

彼は完全に人生を余らせていた。

彼にとっては、未来も今も存在しない。あるのは過去だけだった。だからよくシリアでの思い出話をしてくれた。

だけどある時からそれを語らなくなった。幸せに満ちた過去の記憶すら、今の彼にとっては呪いと化していた。

そんな彼の近況をみんな理解していた。だから今後彼が辿る悲劇的な結末を分かっていたが、マリク以外は誰も彼を止めなかった。この絶望的な状況がここでは現実だった。

貧乏なこの学校で、動物性タンパク質を摂取する唯一の方法が、ベランダで鳩を捕まえることだった。

ムジャヒドゥーはこの学校で最年少の13歳。学校随一の鳩捕り名人。彼にパンの切れ端を渡すと、数時間後には鳩になって返ってくる。動物性タンパク質の生みの親であるムジャヒドゥーは、みんなからの尊敬を集めていた。

しかし私は違った。ムジャヒドゥーの口癖は「tomoni not good」。私とムジャヒドゥーはお互いをお互いに、1歳違いの弟だと思っていた。彼は常に私へ戦いを挑み、何かと張り合ってきた。私も負けじと張り合うため、よく喧嘩した。

昼のムジャヒドゥーはとにかく生意気だった。だけど、あたりが暗くなると、彼の生意気さは影を潜める。そして時折、小刻みに震え出す。

暗くなると内戦での恐ろしい記憶が蘇ってくるらしい。一人で眠れないから一緒に寝てと言われ、小さく丸くなった彼の隣で毎晩寝てあげた。朝になると生意気なムジャヒドゥーに戻っていて安心した。

ムジャヒドゥーだけではない。ここの生徒たちはみんな、死を知っている目をしていた。そして、宗教を信じることで正気を保っていた。

私が日本へ帰国する日、直前まで「別に興味ないです」という態度を取りながら、別れの1時間前に「どこにも行かないで」と突然泣き出したムジャヒドゥー。シリア時代に父親が買ってくれた大切な腕時計を私にくれた。

シリアから脈々と時を刻んできた彼の腕時計を、今でも私は大切に持っている。私にとって勝負の時には必ず、その腕時計を付けることにしている。安物でお世辞にもかっこいいと言えない腕時計だが、それをつけると勇気を貰える。

ムハンマド先生は、大学でイスラーム法を学んだ初老のイスラーム法学者。

初めて話した時から先生は、私が神も宗教も信じていないことを知っていた。だからと言って、この学校から出ていけとも、イスラーム教徒になれとも言ってこなかった。

私と先生はよく、宗教や哲学、人生など様々なテーマについて意見を交換しあった。その中でも特に、先生は愛について語るのが好きだった。愛といっても異性愛ではなく、人類愛や兄弟愛といった、もっと普遍的な愛の話だった。

「君が神を信じていなくても、他者へ対する思いやりの気持ちを持っていればそれでいい」と言ってくれた。

これまで出逢ってきた教師とは名ばかりの取るに足らない大人たちとは、決定的に言葉の重さが違った。私もムハンマド先生のような博識で慈愛に満ちた人間になりたいと思えた。

結局イスラーム教の学校に2ヶ月近く下宿した。

ここでの生活はとても過酷だった。凍えるような寒さや飢えを経験し、絶望が闊歩する世界を知った。

だけど不思議と幸せでもあった。人種や宗教、言語を超えて人と繋がることができた。たくさんの新たな学びも得ることができ、人生の素晴らしさを再認識した。

みんな死んだ

あれから5〜6年が経った、2023年2月6日午前4時17分(現地時間)、トルコ南東部付近で、マグニチュード7.8の地震が発生した。米地質調査所(USGS)によると、震源地はトルコのガジアンテップ。そう、あのガジアンテップだ。

テレビをつけると、思い出の街が瓦礫の山と化していた。その光景は、以前ムジャヒドゥーが見せてくれた、内戦で破壊し尽くされたアレッポと瓜二つだった。

街のシンボルだったガジアンテップ城の変わり果てた姿がSNSで回ってきた。ローマ帝国時代の2〜3世紀に建てられ、それから数百年、街の栄枯盛衰を見守ってきた城が、無惨にも崩れ落ち、街の陥落を思い知らされた。

そしてあの日以来、友人たちのSNSの更新が止まった。それは、つい先日までSNSで何気ない日常を投稿していた、彼らの日常が失われたことを意味した。

彼らの安否を知りたくて片っ端から連絡をとった。しかし誰からも返事は来なかった。

地震で電波が悪いから、私への返信どころじゃないから、と考えるようにして正気を保った。

数日経ってようやく5人から返信があった。今はガジアンテップに住んでいなかったり、ガジアンテップで被災したが奇跡的に難を逃れた人だった。彼らに他の人の安否を聞いても「分からない」、「死んでしまった」という回答が返ってきた。

結局30人近くに連絡して、返信があったのはこの5人だけ。

ほとんどみんな死んでしまった。

一度に数十人の大切な人たちを失った悲しみと、人生の不条理さへ対する怒りが混ざり合い、咀嚼できない感情だけが残った。

空爆で瓦礫の下敷きになったアリが、今度は地震で瓦礫の下敷きに、なぜならなければいけないのか。

誰よりも慎ましく、神への信仰に人生を捧げていた彼らが、なぜ死ななければいけないのか。

私が日本で何の苦悩にも苛まれず、のうのうと生きている一方で、過酷な環境に屈することなく日々を必死に生きていた彼らが、なぜこんな目に遭うのか。

私には理解できなかった。そして人生のあまりの不公平さに愕然とした。

あんなに神へ祈りを捧げていた彼らがこんな目に遭うなら、やっぱり神なんて存在しないんだと思った。

でも神の存在を否定しようとすればするほど、トルコの作家オルハン・パムクの『雪』という小説の中に出てきた一文が思い出された。

「神がいないのだとしたら、天国もないことになる。それなら、貧困と苦悩に苛まれながら一生を過ごす何百万人という人たちも天国へ行けないことになる。だとしたら貧乏人が耐えるこの苦悩の意味は何か?私たちは何のために生きているのか?どうして意味もない苦しみを味わわなければいけないのか?」

オルハン・パムクの『雪』

だから信じはしないが、彼らのために否定もしない。だとすれば何にこの抜き差しならない感情ぶつければいいのか分からない。

地震で死んだと聞くと、結局人間は自然に太刀打ちできないと考える。だけど、今回の地震の犠牲者の多くが貧困層だと聞くと、彼らは格差や貧困に殺されたと思う。手抜き工事で建設業者が捕まったと聞くと、彼らの死は人災だったと思い、宿命論者は単に生まれた時からそうなると決まっていただけと答えるかもしれない。

生まれて程なく戦火に巻き込まれ、命からがら異国に逃れ、人生の大半を戦争と避難生活に費やし、やっと辿り着いた​安住の地でおきた地震により命を落とした彼らの人生とは、一体何だったのかずっと考えている。

結局考えれば考えるほど、ただ無力感だけが募る。私が一緒に過ごした数ヶ月が彼らにとって意味のある時間だったのかも正直分からない。

コロナ禍が落ち着き、海外へ行くハードルが下がった去年の夏頃。真っ先に、ガジアンテップを訪れようと思った。しかし、久しぶりの海外、新しい国を訪れたいという好奇心が勝ち、別の国へ行ってしまった。

それ以降も去年の下半期は毎月海外を旅した。サウジアラビアやレバノン、ヨルダン、イラク、エジプトと、彼らのすぐ近くまで何度も訪れていたが、あそこならいつでも行けるという安心感に甘えてしまった。

仮に去年のどこかでガジアンテップを訪れ、彼らと再会していても今回の地震を避けることはできなかっただろう。だけど数年ぶりに会って、お互いの成長を確かめ合うことはできたはずだ。悔やんでも悔やみきれない誤った選択をしてしまったと一生後悔し続ける。

トルコ・シリア大地震の死者は、両国あわせて計5万2千人(3月8日現在)。トルコでは16万棟の建物が倒壊・損傷し、数百万人が家を失ったと言われている。

出典:NHK「トルコ・シリア大地震 トルコだけで被害13兆円超の見通し 国連」

遠い異国で起きた悲劇と、5万2千というあまりに大きすぎる数字に、もはや何も感じないかもしれない。しかし当たり前だが、そこには一人一人の人生が存在していた。

歳を取ると記憶も薄れていく。思い出の片隅から彼らの存在が消えてしまうのが嫌で、私自身が彼らの生きた証を忘れないために、今回この駄文を書いた。地震が発生してからこの1ヶ月、いろいろ考えたが結局まだ答えは見つからない。だからこの文章のまとめ方も分からないままだ。

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