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神様の領域

 私の実家は伝統宗教の教会で、家の奥に大きな神棚のようなものがあった。そこには社(やしろ)というミニチュアの日本家屋のようなものが飾られていて、祭祀の時以外、その扉は閉ざされていた。社の最奥には神様がいるのだそうで、扉の奥にかかっている御簾の中身を見ることはできなかった。

 小学校高学年の夏休みであったと思う。実家の信仰の100周年記念で、社を取り替えることになった。取り替えると言っても、当然のことながら古い社をポイと捨てるわけにはいかない。役目を終えた社は専用の台に乗せられて納屋に収められた。
 私はこの機会にどうしても社の中身が見たくなった。参拝や祭祀の手伝いを強制され、家の宗教に不満を持っていた私は、空っぽの中身を確認して、「ほらね。うちの神様なんてこんなもんさ。」と思いたかったのだと思う。
 深夜、親兄弟が寝静まったのを見計らって、納屋に忍び込んだ。古い納屋で、明かりをつけても薄暗かったが、目的の社はすぐに見つかった。
 近づいて、じっくり見てみる。普段は父以外、これほど近くで社を見るものはいない。思った以上に精巧にできているそれに少し感心した。
 いざ、手を伸ばす。扉の取手に指をかけた。「開けたらどうなるのだろう。」と逡巡した。本当に神様がいて罰が当たったらどうしよう。神隠しにあったらどうしよう。
 他愛のない空想だが、本気であった。「神様なんていない。」と思っていても、神聖だと教えられてきたモノを犯してしまうことへの緊張が、最後の一歩を躊躇わせた。しかし、迷えば迷うほど、意識は扉に集中していく。

 開けようか、やめようか。呼吸が浅くなり手に汗をかいていることを感じた。
 「ここまで来て撤退はしたくない。」
意を決して、取手を引く指に力を込めた。少しずつ扉が開く。

 ジジジジジジジッ!

 「あっ!」。虫の羽音に驚いて我に返った。開きかけの扉を放って、部屋に帰って布団をかぶった。背中が汗でぐっしょりと濡れていた。

 20年近くも前のことである。あの時、扉を開けていたらどうなっていたのだろうか。何かを見ることができたのだろうか。それとも、やはり何もないのか。社の中の、御簾の向こうは今も神様の領域だ。

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