見出し画像

『汝、星のごとく』凪良ゆう 著       を読んでの感想(※ネタバレを含むのでご注意ください。)

汝、星のごとく
ーーこの愛はあまりにも切ないーー

本読みの幼馴染からの勧めで読んだ本作。


読了したときの余韻が今までに味わったことないほどの作品だった。



男女の恋愛模様を描いた本作だが、ただの恋愛小説というにはあまりにも浅薄すぎる。
それほど、様々な要素が詰まっている作品だった。



主人公の暁海と櫂は、瀬戸内海に浮かぶ、小さな田舎の島で出会う。
暁海の母親は旦那が不倫し、家に帰って来ないことで、半狂乱になっており、櫂の母親も男を取っ替え引っ替えと、子供より男のために生きている。
そんな子泣かせな親を持つ二人だから、自然と打ち解け合い、惹かれあっていく。
しかし高校卒業後、夢のために東京へ出た櫂と、島へ残ることを決めた暁海との間で次第にすれ違いが生まれる....


個性豊かな登場人物がそれぞれの関係性とそれぞれの人生で交差する中で、ひときわ私の感情を揺るがしてきたのが、二人の高校の化学教師である北原先生だ。


北原先生は物語の序盤では、暁海と櫂にとって頼れる大人という立ち位置に過ぎなかったが、実際は物語を通して大黒柱になってくれている重要な人物である。


判断と行動が早く、なんでも知っていて、まるで未来まで読めるのではないかと思わせる北原先生。

いつか暁海が櫂のところへ戻ることを、もともと分かっていたかのように素早く暁海を櫂の元へ送り出した場面があるが、暁海を心から愛し、彼女の意思を最大限に尊重した故のことだろう。

北原先生は、自分の過去を受け入れてくれた暁海を自心を救ってくれた恩人ということで互助枠以上に尊敬し、情を持っていたと感じる。


その感情はもしかしたら愛、恋愛、愛情、どの言葉にも当てはまらないかもしれない。


愛のような何か。
なんと呼べばいいか分からないが、北原先生本人も気づかないくらい小さいが、確かに存在する。
だからこそ、暁海の様子から全てを察し、すぐに櫂のいる東京へ送り出す行動ができたのだと思った。

「愛と呪いと祈りは似ている」との表現が作中にあるが、櫂や暁海の恋愛は紛れもなく愛である。
相手のことを想う。しかしときにそれが相手を縛る呪縛になり、それでも一緒にいたいと願う。

二人の愛は火花のように激しく煌めく。

おんまくのように…..
星のように…….
激しさゆえに散っていき、燃え尽きていく。

やがてたどり着く
高円寺のアパート とという幸せ。

それだけで良かったと二人は気付くのである。



対して北原先生からは愛を超越したようなものを感じる。
自分の人生に諦めをもっているからか、
見返りを求めない凪のような静かな博愛。
悲しみも怒りもない。しかし、それには自分の幸せも含まれない寂しさを感じる。

幸せに辿り着くには自己犠牲だけでなく自分を切り取る痛みの作業がいるのかもしれない。



さて、本作は女性の社会的立場に関する問題提起やジェンダーについてなどにも触れているが、特に私が考えさせられたのは、他人のゴシップへの関わり方である。

暁海と櫂が暮らす瀬戸内海の島の住民はその閉ざされた居住性も相まって他人の家族への興味、噂話しが絶えない。
それが娯楽であり自分たちの生活を守るための自己防衛でもあるのだろう。


その様は現代日本の写鏡にも見える。
日本は結局のところ島国ゆえ、そういう風習が根強いのかもしれない。
最近はSNSやネットニュース含め芸能人などの不倫のニュースにとやかくいう人がやたらと多い。

当事者でもないのに、個人のプライベートや他人の家庭にあれこれいうこと自体辟易するが、そもそも見えてる側面だけで判断するのは軽率だし危険だと考えさせられた。



 「月に一度、わたしの夫は恋人に会いにいく」


この書き出しの真実に辿り着くには勝手に作り上げた何層もの虚構を剥ぐ必要がある。
そのためアンコンシャスなバイアスを普段からできるだけ意識して取り除く努力をしなくてはならない。


だってこの一文には愛しか詰まっていないのだから。


この記事が参加している募集

#読書感想文

188,357件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?