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ストーリーの解釈で自分をいじめない。自分の芝の色を見たことはあるか?

日本で人助けしているときには「アフリカの人救ってねぇじゃん、見ないふりかよ」と言い、
アフリカで人助けしているときには「日本の人救ってねぇじゃん、見ないふりかよ」と言う。



これは極端ですが、似たような例は日常的にあると感じています。


何かを成し遂げる。

例えば飲食店のバイトをしていて、お客さんの笑顔に出会う。
例えば塾講師のバイトをしていて、中学生・高校生の子どもたちの「あ!分かった!」という笑顔に出会う。

そんな時、「自分も役に立ってんじゃん」と感じる。



その次に来るのが、最初に提示した「でも君〇〇してないじゃん」構文である。

自分に出来ることを全力でやる。恐らく日常というのは、それの繰り返しでしか進んでいかないのだと思っている。




しかし一部、「自分の望み、夢をクッキリと思い描く事で、夢は近づく。引き寄せることが出来る」という思考を持つ人がいる。

その思考の人は、Aの次にはBをやる、その次はC, その次はD, E, F, G, ,,,最後にzと、決まった手順で物事を進めていく。

その中で得られなかったもの、もしかすると得られていたものには目もくれない。
だってそれは、最終的な自己実現 z に必要ないから。目的に到達するまでの途中経路は決まっているのだ。



夢から逆算していくことで、今やることが決まる。

それは正しいと思う。
夢から現実のレベルまでちゃんと逆算出来る、それくらいはっきり定まった夢であれば、補足範囲に入っていることだろう。

例えば私の筋トレの目標はこの背中。
自分の顔の下に、この背中がある事を想像する。今の自分と比較して、「三角筋発達してないな」と分かればそこのトレーニングをする。「広背筋下部、しぼんでない?」と分かればそこに集中したトレーニングをする。

非常に分かりやすい。

夢はサイコロ振っても決まらない。

ではその夢は、どうやって決めれば良いのだろうか。

自分が「まぁこれかな」とサイコロを振るような決め方をしてしまって、良いのだろうか、と不安になる。


世の中は
「これまで私はこんな(不幸エピソード)に遭ってきました。それを解決するために私は(きらびやかな夢)を目指して頑張ります」
という大逆転ストーリーで溢れ返っている(様にみえる)。

そんなストーリーと自分の抱いた「これがやりたい」という夢を勝手に比較して、
「自分の夢にはそこまでの思い入れは無いなぁ。あんな感じのストーリー性に富んだ夢が自分にもあるはず」
とまだ見ぬ夢を目指すため、勝手に今抱いた夢を諦める。


文章は嘘で出来ている。

最近、また考えが変わった。

文章を書くとは、ある意味「嘘を書く」ことだと学んだからだ。


他者のストーリー性に富んだ夢、街に溢れる商品、広告。


そのすべてがある意味「嘘」だと認識した。

最も、本人に嘘を付いている意識は無いことが多い。それを「嘘」だと言わしめるのは「解釈の違い」だ。

読み手と書き手の解釈が異なることを「嘘」と表現すること。たしかに、言われてみればできんこともない。



同じ文章を見て、Aという様に感じる人Aさんと、Bという様に感じる人Bさん
が居たとしよう。


書き手がAを伝えるつもりで書いているとすれば、その文章をAと解釈したAさんにとって書き手は「正直者」であるように見える。


Bさんはどうだろう。
文章を読んで、Bと解釈する。

あとから「書き手はAという事を伝えたがっているんだよ」と聞くタイミングがあったとするならば、Bさんは「書き手に嘘をつかれた」と感じるのでは無いだろうか。

この時、書き手は嘘をついていると言えるだろうか。
私は言えないと思っている。

書き手はAという事を意識して文章を作成した。
それを見てBだ、と解釈したのはBさんである。

繰り返し言うが、書き手が「B」を意図して書いたわけではない。


人間は他人のストーリーを見て、それを解釈し、自分の好きなように解釈を加え、落とし込むことが出来る。

しかしその「私のストーリー解釈の仕方」が、「ストーリーの書き手」と同じである、という機会は少ない。

そもそも書き手としても、「自分が想像した方法で受け取ってもらえる」などと思わないほうが良い。


話をもとに戻そう。


「これまで私はこんな(不幸エピソード)に遭ってきました。それを解決するために私は(きらびやかな夢)を目指して頑張ります」


という文章を見て、「この文章の筆者はこんな辛い体験をしてきたのか、それでも頑張ったのか!凄い!」と解釈しているのは自分である。


自分が自分の夢に対して行う解釈と、自分が他者の夢に対して行うアセスメントは解釈が異なる。

そこの意識が欠けているといつまでも隣の芝は青く見えてしまうだろう。

隣の芝は青い。しかし隣の家からみた自分の家の芝も青いことだってあるかもしれない。

隣の芝は青い。自分の家の芝を観察したことはあるか?


「でも君〇〇してないじゃん」構文それ自体が悪いわけではない。

淡々と事実を指摘している。

おそらくは、一旦その事実を認めることが大事なのだと思う。

「そう、今の僕は〇〇はしてないよ。でもこれをやってる」

そうやって他者に揺さぶられない自分を持つことが、「夢を持つこと」なんじゃなかろうかね。いまのところ。



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