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勉強の哲学でバカになった自分を振り返る。「ほどほどの」コード転覆【読書メモ】

千葉雅也さん著「勉強の哲学 来るべきバカのために」が自分の中でバイブルになっている。
購入したのは 2020年10月25日。今から約1年半前の事。Obsidian を始めた頃と重なります。

なんかこの辺り、すごく自分の中で転換が起こった時期なんですよね。

その当時、コロナ禍真っ只中。夏にはクラスターが頻発、大学も学生の動向に敏感になっていました。
当時の彼女と同棲していて、2人だけの世界が完結していた。

彼女の母親が下宿にやってきて「このままでは行けない」と警鐘を鳴らしてくれたのも丁度2020年の10月末、だったような気がします。


1年半前の自分は、勉強だけでなく、現実世界に対してもひたすらアイロニーとユーモア意識を向けまくり、「コードの転覆」を引き起こす。そして時にナンセンスに至る。

振り返ればあの頃は、「ほどほどの」範囲内でコードの転覆を起こすことを知らず、ナンセンスをひたすら引き起こしていたのだと思います。

そういった失敗を経て、少しずつ「ナンセンスを引き起こさない、丁度よい範囲内でのコードの転覆」が出来るようになってきた。そんな風に思う。

あの頃でなければ出来なかった体験でした。
幸いな事に医学部の授業はオンライン形式がほとんどで、対面授業は月に数回。後は全部自宅で受講、というスタイルでした。

プレコロナ時代の様に対面授業当たり前、の状況でなくてホッとしています。それまでに築いた人間関係に対して無差別的にアイロニーとユーモアを繰り返していたら、村八分へ一直線、だったかもしれません。


さて、今の私は「新しい学び方」と称して、1年生に対して学習方法を伝える立場になりました。

こうして振り返ってみると自分の学習方法というのは、幾つかの本を読む過程で得られた知見を組み合わせて出来上がっているモノ。

得られた知見だけを伝えたとしても、それは一部「ノウハウ」として相手の中に処理されてしまうのでは無いか‥。そう考える自分がいるのです。

同時に、「自分と同じ考えをしてもらおう」、なんて思い自体が傲慢なんじゃないか、と考える自分もいます。
同じモノをどう捉えるか。その思いは十人十色。それを画一的なモノにしてしまおう、という考え自体がよくないよな‥と感じます。


そういえばこの本を読んだ2020年は、同級生の真似っ子をしていたような気がします。

すごく本を読む同級生。彼に負けるな、彼と同じ土俵で話がしたい、そういった感情で本を読み、ディスカッションをする。


オチがない話は嫌いだよ。
とりま、この本をオススメします。
一人で読むのがしんどいつらみ🥺って人は、TwitterのDMでもしてきて下さい。

輪読会、やりましょ🦮



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