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自分だけの表現

「ひろしには  ”出張料理人の経験” が一番大事なのではないか」といった助言を親友からもらった。

作った料理を喜んでもらえるのも嬉しいし、ナチュラルワインを飲んでもらって感動してもらえるのも嬉しい。自分が美味しいと思っている料理を作るだけでこんなにも喜んでもらえるなんて、と感じる。トラットリーアひろしは楽しいし、その経験の重要性は理解しているものの、一方でどこかマンネリを感じている。「自分の表現がない」と感じているからだ。

トラットリーアひろしで出すメニューは基本的に鬼才のレシピを再現したものがほとんどで、そこには自分のオリジナリティはほとんどないし、なぜこの食材を使うのか、なぜこの調味料を使うのかがわかっていないことがほとんど。各食材や調味料をどの程度入れるかという量も説明できない。甘み、塩味、酸味の均衡するバランス、基準も自分の中に持てていない。

作った料理が美味しいのはレシピに沿って作っているからだし、美味しくできるのは半ば事故とも言える。なんなら僕はレシピを真似ているだけで料理のなんたるかもイタリア料理のなんたるかもわかっていない。塩を入れればなんだって美味しくなる。イタリア産のいい食材を使えば大体美味しくできる。そんなことは当たり前で、そこに加工職人、料理人としての僕は存在していない。そんなことを少し前から考えるようになった。悩み、課題とも言える。

一方で、ダンスやサウナに関してこの手の課題を抱いたことはない。悩んだこともない。型を学び、繰り返すうちに、自分のスタイルというものが自然とできた。人と踊ると自分の踊りの違いがすぐにわかるし、水風呂入ってから整い椅子に座るまでの所作一つとっても僕はみんなと全然違う。自分の個性、表現がそこには存在する。

ダンスもサウナもどちらもそれなりに学ぶ時間を多くとっている。CCEに学びに行ったり、ケーリーにたくさん行ったり、日本全国のサウナに入ったり、アイルランド・フィンランド本国に行ったり。だから、まだ始めたばかりでしかない料理で「個性がない」と悩むのは随分とお門違いで、今はただ料理に、イタリアに触れ続けるしかなくて。それらについて悩むのはイタリアに行って、空気を吸って、流れる時間を感じてからかなと今は思っている。

たとえそうだとしても、自分の表現とそれがもたらす影響について考えを巡らすことの重要性は減りはしないけれど。

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