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栄光のバガテル~葉巻に関する雑記~

葉巻をくわえながら、これを書いている。夜、道の駅の駐車場で、軽く窓を開けつつ。
ここ最近ふさぎがちで、それは致命的なまでに深刻だった。note含め、文章らしいものはなにひとつ書けずにいる。が、ふと思うものがあって、今、久しぶりにキーボードを叩く。
(タイプミスが多くて、うらさびしい思いを抱きつつ)

葉巻、あるいは生きた化石

豊潤でまろやかな甘みが大好きだった「ダッチマスター」が終売してから、しばし葉巻に手を出してこなかった。
が、いつもお世話になっている厚木の煙草屋で「グロリア」という銘柄の葉巻を見つけ、試しに呑んでみると、実にやわらかく美味であった。

「グロリア」は、昭和3年に日本で誕生し、現在はフィリピンで生産されているらしい。
昭和3年と言えば西暦1928年であり、90年以上の歴史を持つ。つまり90年前は葉巻が売れる時代であり、現在より遥かに多くの人が葉巻を嗜んでいたのだろう。

現代は、反煙草を大声で言っても咎められない時代だ。
その傾向に関して、喘息持ちの僕はなにひとつもの申すことはない。僕が老人になるまでに、やがて煙草という文化は消えゆくことだろう。
まして葉巻なんてものは、あと数年もすれば、行灯や荷馬車のように、歴史上の一演出アイテムとなり、歴史資料館でしか実物を見ることができなくなるかもしれない。
それも時代の流れだ。このあたりの話は、昔書いた記事に所感があるので、こちらを参照していただければ幸いである。

「煙草思案」
https://note.com/johgasaki/n/ne75a3476c886

忌むべき葉巻

さて、葉巻というものは、他人からすれば害悪でしかない。
これは煙草全般に言えることだが、こと葉巻やパイプは紙巻き煙草の比でないほどに害悪だ。
というのも、まず喫煙所でこれに火を着けたとすれば、他の愛煙者からも間違いなく疎まれる代物だからだ。

吸い方にもよるが、葉巻というのは紙巻き煙草よりずっと煙たいし、臭い。
なぜなら、紙巻き煙草(や、その後継ともいえる電子煙草)はその歴史的経緯から、煙たくなく、臭くない方向へ進化していったものだからである。
(そもそも紙巻き煙草と葉巻では、製造工程の違いから、煙のpHが異なるとの話もあるらしいが、確実な資料を見つけられなかったため、ここでは割愛する)

紙巻き煙草が波及した要因の一つに、「タバコミュニケーション」が挙げられるかもしれない。一服ついでに、交流を図る。あるいは交流を図るために一服する。そのための1本。軽い挨拶のようなものだ。
だから、煙草なんて1、2分吸えれば充分事足りる。

一方葉巻は、(銘柄や吸い方にもよるが)1時間は吸いつづけられる。
挨拶程度の一服に、1時間も相手を拘束させることなんてできるはずもない。
そもそも嫌煙の世でかつコロナ禍な昨今、葉巻なんかを巷で吹かすのは、理由を挙げるまでもなく論外であることはご理解いただけるだろう。

葉巻を吸うという「技術」

そもそもの話である。
葉巻を吸うのには技術が必要だ。

まず、これは肺に入れるようなものではない。いわゆる肺喫煙というものではなくて、口腔喫煙が推奨される。軽く煙を吸って、鼻から抜いたり、口からくゆらせたりして、香りを楽しむのだ。
いちいち肺に入れていたら、あっという間に一酸化炭素で酸欠(いわゆるヤニクラ)になってしまうだろう。(※1)

ヤニクラと言っても、気持ちいいものではない。
強烈な吐き気と目眩を伴うもので、その日はずっと倦怠感が付きまとう。肺に入れなくとも、休憩を挟まず頻繁に吸えば、同様に倒れる。
かくいう自分も、何度かやらかしたし、気を付けて吸ったとしても、体調のいかんによってはすぐだめになることもある。

また、唇は常に乾燥させておかなくてはならない。
葉巻に含まれるニコチンは塩基性であり、水に溶けるとアルカリ性になる。当然アルカリ性のものをくわえれば、唇はたちまち化学やけどを引き起こす。
コーヒーと交互に嗜もうものなら、痛い目を見るだろう。飲み物を控えたとしても、葉巻を長時間持った指先と唇が触れても、ひりひり痛む。
当然のことながら、葉巻の煙(蒸気)もアルカリ性である。特に後半、強めに煙を吸い込んでしまうのもいけない。アルカリ性の蒸気を多分に含んだ煙によって、口内は炎症だらけになってしまう。(※2)

とにかく、葉巻というものは、紙巻き煙草と同じ葉を使い、形状が似ている以外は、まったくの別物なのだ、という認識をしたほうがいいように思える。

※1
酸欠はパイプ喫煙でも同じことが言えるのだが、かのアインシュタインは、パイプを肺喫煙していたという[参考]。また、煙をたっぷり肺に満たすような喫煙技術も存在することは明記しておく。
が、これから述べる危険性を考慮するに、特殊なコツを取得したうえでおこなっていることは言うまでもない。

※2
「喫煙防止教育パンフレット」(URL)の「2.たばこの煙について」によると、肺の中に吸入される主流煙は酸性(PH6前後)、火のついた先端から立ち上る副流煙はアルカリ性(PH9前後)とある。しかしなぜ主流煙と副流煙とでpHが異なるのかの理由は説明されていない。フィルターを介すことでpH濃度を下げることができるのかもしれないが、断言は控える。
また「福岡県薬剤師会」くすりQ&A(URL)の「33.タバコの誤食」によると、ニコチンは塩基性であり、「葉中ニコチンは1時間で50~70%が水に浸出する」とある。よって、唇や手で湿った部分はpHの値が高くなる(アルカリ性が強まる)といえる。
上記資料により、葉巻を吸うと唇や口内などの粘膜は軽い化学やけどを負いやすいことが分かる。
余談だが、葉巻を吸ったあとの指先は、妙に脂っこい印象を受ける。これはタールのせいであると考えていたが、もしかすると手汗によって浸出した葉中ニコチンにより、上皮がわずかに溶けたためなのではないか、とも思えてくる。おそらく両方ともだろう。

コロナ禍の葉巻、それと

ここまで読んできた方からすると、葉巻を嗜むとは、まるで苦行であるかのように錯覚するかもしれない。
しかし、僕が抱く葉巻の印象は、その逆である。葉巻と寄り添う時間は、丁寧に嗜めば、それは至福のひとときなのだ。

葉巻は、他人とは味わえない。人に薦めようにも、考えなしに吸えば一酸化炭素中毒で苦しむことになる。臭いは強烈だし、副流煙を吸うだけでも気分が悪くなってくる。そうでなくても、世間からの風当たりは強い。
ただ、一度コツを身に付ければ、豊潤で濃厚で甘美な時間を過ごすことができる。
だから、葉巻は究極的な「個」の趣味である。

ただのひとりで、時間に縛られない、ゆったりとした空間こそ、葉巻の味わいだ。
舌と顎の微妙な動きで煙の量を調節し、その調節具合によって、香りはいかようにも変化する。口に含んだ煙を鼻から抜くか、口から漂わすかでも、甘味は驚くほど変わる。吸い始めと吸い終わりとでも、煙の違いに気付かされることだろう。

葉巻を嗜むとき、一服の時間を長引かせることはできても、早めることはできない。
コーヒーやお茶は、急な用事を思い出せば一気に飲みほすことができるが、葉巻でやればたちまち酸欠になる。一度火をつければ、たとえ仕事が忙しかろうが、吸い終えるまではブレイクタイムなのだ。
だから、ゆったり香りと向き合うほかない。自分の都合ではなくて、火口の灰が落ちきるまで、葉巻に時をゆだねるのだ。

かつてのように、気軽に人と交流ができない今だからこそ、葉巻はもっともその味わいが深い喫煙手段なのではないか、とも思う。
共に雲や月の移りかわりをのんびり眺めながら、もの思いしたり、物語を読んだり、音楽に耳を傾けたりするのも一興だ。
もしかすると葉巻は、かけがえのない安息をもたらしてくれるものなのかもしれない。

がしかし、葉巻は今に至るまで残っていることが不思議なほど、前時代の代物である。
僕が見つけた安寧は、おそらく歓迎されるものではない。共有されることも、共感されることもない。
こんな記事、ただのニコチン中毒者の妄言だと一蹴されておしまいだろう。
葉巻なんてためしに吸うまでもなく害毒であり、絶対悪なのだ。

そんなことは分かっている。
だとしても、「グロリア」から立ちのぼる煙を眺め、ふと見上げた月夜の空に、秋めいたひつじ雲が浮かんでいることを知った。
いつの間にか季節が変わっていた。夏から、ずっと余裕がなかったんだなと、気付くことができた。気付けたからといって、これから何かが変わるかなんて確信はないけども。
でも、もう二度と文章なんて書けないと怯えていた僕が、こうしてバガテルなエッセイを書き記すことができた。

僕にとって、葉巻がもたらしたひとときは、救いだったのだ。

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