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表出と内省、殻斗と胚珠

ものを書くということについて、ここ数ヶ月思いを馳せては霧散していくあれこれを記そうと思う。

今年は自らを見つめる年となった。
そもそも発表した作品は片手で数える程度であった。

昨年の今日から週間連載をした『ユーメと命がけの夢想家』からはじまり、
29歳の最後の日に『海の見える図書室 真夏の章』を出し、
7月30日に脚本を手掛けた『【鬼っ子ハンターついなちゃん】ボイスドラマ 第44話 前編』が発表された。
(収録自体は2020年に行われている。ここに詳しい
先日の冬コミで初頒布の『ついなちゃん合同誌2023』に寄稿した作品。

このほかに、裏でいくつか書かせていただいたものやプロットを何本か構想したが、そのどれもが遠い過去のことのように感じてならない。
つまるところ、今年は自らを見つめる日々であった。

おそらく、そんな話を記することになろう。

僕は長篇書きではないと気付いた

僕という人間は、なにが得意で、なにが苦手か。なにが苦痛で、苦もなくできることはなにか。
思えば、なにも知らずに感覚的にやっていただけに過ぎなかった。

僕は同人活動でそれなりにやってきた。活動内容の詳細は『無名の一次創作文芸個人サークルが1年間で500部頒布する方法。』#むいちもん に詳しいが、そもそもここで書いたものは中期的な視点で描いたものだったりする。長期的プランでは、30歳(つまり今年の6月)までに新人賞を獲得し、次のステップに移行することを前提としていた。しかし現実としてその段階に足を踏み入れることができたかといえば、それは否である。それも一歩たりとも、その門すら叩くことなく過ぎ去った。

昔の話になるが、同人活動を本格的に開始した2016年から、完結させることのできた長篇小説は『イリエの情景』ただそれのみである。

もちろん『海の見える図書室』の「春の章」「夏の章」「真夏の章」を刊行することはできた。ほかにもいくつかの短篇やエッセイを手掛けはした。しかしシリーズとしては未完であるし、僕個人としても、うみとしょの各章を挙げて「完結した長篇作品が三本あります」だなんて、とてもではないが口にはできない。

思えば僕は長篇書きと自認しているが、では人生のうち何本の長篇を「完結」させたか振り返って考えてみれば、両手で数えられるくらい……いや片手、ちがう、人差し指一本で事足りる。
(高校時代に書いた『翼の生えた少女』も一応完結作品と言えるが、その後続編として第二部、第三部と続き、最終章の第四部は構想で留まっている)

こんな経歴の人間など、長篇書きのなかでも最弱である。
つまるところ、僕は人物の人生の切り取り方を、ただの一パターンしか会得していないのであった。
だから新人賞原稿は一本も完結させることはできなかったし、WEB連載も書けずじまいであるのも、ある意味で当然のことなのかもしれない。
(そして不思議なことに、僕はこうして振り返って考えてみるまで、もう少し長編小説を完結させてきたと考えていたのであった)

そしてここで側溝にハマりやすい選択として、ネタを収集することに従事することが挙げられる。とにかく、創作のダムに水を溜めるのだ。溜めて溜めて、水があふれるくらい満たされれば、自ずと書けるだろうと、僕は考えた。
しかし現実は、少なくとも僕の場合は、違った。どんなに知識で武装しようが、手を動かさなくては物語は出てこないのだ。
加えて、文章を書くことと、ドラマを描くことと、風景を描写することと、ネタを収集しメモに記すことは、同じ文字でも、書くスキルとしてはまったく異なる。
ネタを収集しメモを記したところで、これをドラマの文脈で、かつ魅力的に描けるようでなければ役に立たない。この変換作業は、小説というものを書いて磨かなければ身に付くことはないだろう。

変化のない一年だった。自覚したうえで

僕は歪で未熟者の創作者だ。
未熟であることを自覚して、経験が浅いことを理解しながらものを書いていく。
つまるところ、経験則や勢いだけで行き当たりばったりに書くことはもうやめようと思う。それが通用するほどのエネルギーはもう持ち合わせていないのだ。
似たようなことは今年の秋ごろ書いた記事にもあるので、繰り返しにはなるけれど。
これは衰えたというより、よりロジカルな、意味のある文章を書きたい欲が増してきたから、という文脈で捉えていただきたいところではある。そしてロジカルで意味のある文章を書いた経験は少ないのだ。

そんな人間だけど、長篇を書きたがっている。
壮大な世界と哲学ばかりが膨らむのに対して、語り手の像や周囲の人物への理解が浅い。絵に描いてすらいない餅ばかり眺めて酔ってるだけの、典型的な「大作を胸に抱く一般夢想家」になりさがっているのが現状である。
これは、一年前の今となにひとつ変化がないと言い換えてもいい。

そしてそれはつまり『真夏の章』のあとがきに「一〇年前に書きつづけるということをやめてしまった」とあるように、
一朝一夕で抜け出せるような事態ではない。
それなのに、僕は一朝一夕でどうにかなるものなのだと思っていた……というより、信じていた節があった。
もしかすると僕は「自分のことをもの書きだと思ってる一般人」なのではないかと何度も疑ったし、これを払拭できるだけの物的証拠を持っていない。

さてここでnoteの記事的には、「いや、そうではない。僕はもの書きであり、そのために毎日5000字書く習慣をつけようと決心した」などと書けば映えるのだろう。
が、そんなことをしたところで僕になんの得があるのだろう。
強いて言えばスキがちょっと増えてニマニマできるくらいだと思うが、そんなものは一時の平穏を得られるモンスターエナジーと大して変わらない。

僕はスキをもらいたいのではない。もの書きでありたいし、僕の思い描く世界を表出させたいのだ。部屋の窓を開けた途端に、物語の風が薫るような、そんなものを書きたいのだ。
書けるのなら、自分の命なんていくらでも棄ててやる。

今年は「書きつづけるには書きつづけるしかない」をモットーに生きた。
書くことに怯え、書く意義を喪失し、空虚を漂っていた一年前を思えば、這い上がれた感はある。
ゆえに次は「物語を書くには物語を書くしかない」とでも言おうか。

それも、まずは自分勝手に書くところから始めたい。
振り返ると、最近は読者のことを意識して書くことに意識的になりすぎて、逆にまったくつまらないものばかり構想してはボツにしてきた。
読者はただひとり、僕だけだ。
流行とか傾向とか倫理とか配慮とか、そういうのはひとまず置く。僕が楽しく読めるものを書く。
僕のなかの自虐性、嗜虐性、劣等感、そういったものを気持ちよく刺激する作品になれたらいい。

僕は一〇年近く、自らの殻を破けずにいる幻想に囚われつづけている。足かせにも似た鬱陶しさを抱くわけだけど、この念慮ともうまく付き合っていけたらと思う。

一つのことしか注力できない人なので、たぶんほかのすべてをおざなりにするような気がする。来年の今日、そのことを悔いるだろうけど、たぶん僕の人生は後悔ばかりが募るものになると思うから、それでいいのだと思う。おざなりにしないで中途半端な創作しかできなくても、それはそれで後悔するだろうし。
双方の後悔を求めるなんて、僕はなんて強欲なのだろうな。

どうだっていい。
学んで、真似て、実践する。
それを地道につづける、そんな地味な一年になりますように。

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