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JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争

 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。


■1.毛沢東の「日本軍閥に感謝」■

 毛沢東は、訪中した日本の政治家が過去の侵略について謝罪すると、「いや、日本軍閥にむしろ感謝したいくらいですよ」、彼らが中国を広く占領していなかったら、「われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう」と述べた。[1,p346]

 中国共産党(中共)軍は1936年(昭和11)10月に、国民政府軍に追われて1万キロ以上も敗走し、ようやく中国西北部・黄土高原の延安に逃げ込んだ。「長征」と美化するが、実態は大敗走である。「山の中」とは、この延安の事だろう。日本軍が侵入して来なかったら、中共軍は圧倒的な国民政府軍の攻勢に、延安に閉じこもる山賊程度の存在に過ぎなかったろう。

 もっとも毛沢東のこの言葉には、日本への素直な感謝というより、「してやったり」という自慢が多分に含まれていると感ずる。日本を日中戦争に引きずりこみ、蒋介石の国民政府軍と戦わせて「漁夫の利」を得る、というシナリオを書いたのはソ連のスターリンだったが、それを主役として演じたのが毛沢東であった。この実績と、党内の競争相手を冷酷な手段で次々に蹴落としていったことで、毛沢東は中国共産党主席の地位を獲得したのである。最近のベストセラー『マオ』には、その過程が活写されている。[1]

■2.スターリンの戦略■

 当時、蒋介石は「安内攘外」、まずは国内の共産党勢力を片付けて国内を安んじ、その後に満洲に打って出て、日本を撃退するという戦略をとっていた。日本は満洲での近代国家建設に邁進しており[a]、当面は中国本土に侵入してくる気配はなかった。

 一方の中国共産党は、1931年の満洲事変勃発当初、蒋介石から抗日統一戦線の提案があっても「笑止千万」とはねつけるほど、国民政府を敵視していた。

 これはソ連にとっては、きわめて都合の悪い状況であった。スターリンは、ナチス・ドイツと満洲の日本軍とによって東西から挟撃される事態を最も恐れていた。日本が中国との戦争に足をつっこんでしまえば、その恐れは遠のく。

 そのためにも国民政府軍を共産党ではなく、日本との全面戦争に向けさせ、両者を徹底的に消耗させた後、中共軍に天下を取らせ、共産中国を実現する。以後、スターリンは、この戦略を追求していった。

■3.国共合作指示■

 国共合作の好機は、中共軍が延安に逃げ込んだ直後に訪れた。1936年12月、西安に督戦に訪れた蒋介石を、現地で東北軍を指揮していた張学良が監禁し、共産党に通じたのである。張学良は、かつて満洲を支配した張作霖の息子で、父親が何者かに爆殺された後、満洲から退き、蒋介石の陣営に属していた。

 張作霖爆殺は、当時、日本軍の仕業であると広く信じられていたが、近年、ソ連情報機関の資料から、スターリンの命令に基づいて実行され、日本軍の仕業に見せかけたものだという説が強まった。[1,p301]

 当時、共産党は延安に逃げ込んで絶体絶命に境地にあり、11月25日にはドイツと日本が防共協定を結んで、ソ連が最も恐れていた悪夢が現実のものになりつつあった。張学良はこの時期に、蒋介石を裏切り、自分を中国の支配者としてソ連に高く売り込もうという博打を打ったのであった。

 張学良を蔭で焚きつけたのは毛沢東であった。毛沢東はこの機会に蒋介石を殺そうとしたが、スターリンはそれを止めさせた。今回の事件に共産党が関与しているという噂がすでに広まっており、もし蒋介石が殺されでもしたら、国民の怒りは中国共産党のみならず、ソ連にも及び、日本と手を組んでソ連を攻撃せよ、という世論が高まる恐れがある、と判断したのである。

 スターリンには奥の手があった。1927年にモスクワに留学した蒋介石の息子・蒋経国を、その後も人質として抑留していたのである。スターリンは蒋介石に、自身の解放と息子の帰国とを交換条件に、共産党との戦闘停止を命じた。

 これを受けて毛沢東も、スターリンの指示した「連蒋抗日」に沿って、方針転換した。この時期、スターリンは張学良をけしかけて蒋介石を監禁させた毛沢東が日本と共謀しているのではないか、と疑っており、これ以上、勝手なまねをする事は身の危険があったからである。

■4.冬眠していたスパイ・張克侠■

 この西安事件をきっかけに、国共内戦が終結した。しかし、蒋介石も強大な日本軍との全面戦争は自滅を招きかねないので、自ら動こうとはしなかった。蒋介石と日本軍を戦わせるには、もう一押し必要だった。

 翌1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で夜間演習中の日本軍に夜10時から翌朝5時に渡って、3度も不法射撃が浴びせられた。日本側は7時間も自重していたが、ついに反撃した処、敵兵の遺体から国民政府軍の正規兵であることが確認された。

 この蘆溝橋事件は日本軍の陰謀だというのが、現代の中国政府の主張であるが、この点は東京裁判でも不問にされている。突っ込めば、中国側にまずい事実が出てくるからであろう。近年、現地の第29軍副参謀長・張克侠が共産党の秘密党員であって、日本軍撃滅計画を立て、共産党北方局主任・劉少奇(後に国家主席)から承認されていた事実が明らかになっている。また、中共軍の『戦士政治読本』の中に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」という記載があるそうである。[2,393]

 日本の陸軍は不拡大方針をとり、現地で11日に停戦協定を成立させたが、13日、14日、20日、25日、26日と国民政府軍からの不法射撃や襲撃が相次ぎ、日本軍の死者も少なからず出た。日本軍は敵方に和平の意思なしと判断し、開戦を通告、数日にして北京、天津から国民政府軍を駆逐した。

 しかし、7月29日、北京東方の通州において、260余名もの日本人居留民が虐殺された「通州」事件が起きた。鼻に牛の如く針金を通された子供、腹部を銃剣で刺された妊婦など、凄惨な光景が報ぜられるや、日本の世論は激高した。[2,p401]

■5.日本も蒋介石も上海での戦争を望んでいなかった■

 こうして戦火は華北で燃え上がったが、日本側はいまだ対中全面戦争を望んではおらず、戦場を広げるつもりはなかった。蒋介石も宣戦布告をしなかった。それが突然、千キロも離れた上海に飛び火するのである。

 日本は1932年の休戦合意に従って、上海付近には海軍陸戦隊をわずか3千人配置していただけであった。8月中旬までの日本の方針は「進駐は華北のみとする」というものであり、「上海出兵には及ばない」と明確に言明していた。『ニューヨーク・タイムズ』の特派員H・アーベントは、のちにこう回想している。

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 一般には・・・日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は・・・この地域に非常に少ない兵力しか配置しておらず・・・[1,p340]
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 アーベントは、「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」の存在に気がついた。彼はそれを蒋介石によるものと考えたが、実際はスターリンによるものだった。

■6.冬眠していたスパイ・張治中■

 スターリンはさらに戦火を広げるべく、国民政府軍の中枢で長年冬眠させていた共産党のスパイを目ざめさせた。張治中という南京上海防衛隊の司令官だった。張は1925年頃、ソ連が資金と人材を提供して設立された黄埔(こうほ)軍官学校で教官をしていた。蒋介石が校長となり、国民政府軍の士官を育てる事を目的としていたが、ソ連は学校設立当初から、軍の高い地位にスパイを送り込もうという意図を持っていた。[2,p342]

 張は回想録の中で「1925年夏、わたしは共産党に心から共鳴し、・・・中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。この時、周恩来は黄埔軍官学校の政治部主任をしていた。周恩来は張に対して、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。

 蘆溝橋事件当時、張は蒋介石に、上海で日本軍に「先制攻撃」をかけるよう進言した。しかし、蒋介石は耳を貸さなかった。上海は中国の産業と金融の中心であり、また首都南京にも近かったので、ここを戦場にしたくなかったのである。

■7.作られた国民政府軍と日本軍との全面衝突■

 8月9日、張は蒋介石の許可なしに事件を仕組んだ。上海飛行場の門外で、中国人死刑囚に国民政府軍の軍服を着せて射殺し、さらに部下に命じて、日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を殺害した。日本側が先に国民政府軍の兵士を殺害し、それに対して、国民政府軍が反撃したように見せかけたのである。

 日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示し、蒋介石も攻撃許可を求める張を制した。しかし、張は日本の旗艦「出雲」と海軍陸戦隊を爆撃し、さらに「日本の戦艦が上海を砲撃した」と虚偽の発表を行った。民衆の間で反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられて、やむなく総攻撃を命じた。

 蒋介石が日本軍との全面戦争に追い込まれたのを見て、モスクワは小躍りして喜んだ。スターリンは8月21日に国民政府と不可侵条約を結び、2億5千万ドルを融通して、航空機1千機、戦車、大砲などを売却し、さらにソ連空軍を派遣した。この後の2年間で、2千人以上のソ連軍パイロットと300人前後の軍事顧問団が対日戦に従事した。

 一方、日本においても、在日ドイツ大使の私設情報官に扮したソ連スパイ・リヒャルト・ゾルゲが暗躍しており、ゾルゲに通じた元朝日新聞記者・尾崎秀實が、近衛首相のブレーンとして、蒋介石政権との和解の動きを封ずる策謀を行っていた。[b]

■8.毛沢東の「抗日」■

 もっとも日本軍と戦ったのはもっぱら国民政府軍で、毛沢東は中共軍の戦力を温存する戦略をとった。蒋介石には、中共軍を正面戦に投入せず、国民政府軍の側面部隊として遊撃戦に使うことを了承させた。そして中共軍の指揮官に対しては、日本軍が国民政府軍を打ち負かすのを待ち、そのあとで農村部を支配地として獲得せよと命じた。広大な中国大陸では、日本軍は鉄道や大都市を占領するだけで、農村や小さな町を共産党の支配地域としていった。また敗走した国民政府軍の兵隊を集めて、中共軍を拡大していった。

 一部の軍の指揮官たちは、この方針に反発し、日本軍との交戦許可を何度も求めたが、毛沢東は拒絶した。一度だけ、毛沢東の許可なきまま、林彪の部隊が山西省北東部で日本の輸送部隊を就寝中に襲い、200名程度の日本兵を殺害した。これを知った毛沢東は猛烈に怒ったという。それでも毛は抜け目なく、この戦いを宣伝に使い、共産党は国民党より抗日に熱心である、と繰り返し広めた。ここ数年でこれ以外の重要な戦闘はしていなかったからである。

 日本軍と戦わないばかりか、毛沢東は日本軍の後方で、国民政府軍を攻撃することまで行い、勢力を広げた。その結果を見て、軍の指揮官たちも、次第に毛沢東の冷徹な作戦を賞賛するようになっていった。

 ただし毛沢東はモスクワに対しては、抜け目なく、中国共産党の方針は「抗日最優先」で、蒋介石の「統一戦線」に協力し、共産党の八路軍は日本軍と2689回もの戦闘を行った、と報告していた。

■9.中国人民の苦難■

 1945年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、満洲に侵攻した。同時に毛沢東は、ソ連侵攻後の地域を共産ゲリラで占領する作戦を進めた。スターリンは蒋介石に3ヶ月以内に撤兵すると約束をしたが、一度、侵入してしまえば、そんな約束は反故にされた。

 満洲に居座ったソ連軍は工場や機械設備を丸ごと「戦利品」として運び去り、また投降した満洲国軍20万を共産党の配下に置いた。さらに日本軍の武器庫を接収し、中共軍に引き渡した。航空機900機、戦車700両、3700門以上の大砲・迫撃砲、1万2千挺もの機関銃、数十万挺のライフルなどである。さらに北朝鮮にあった日本軍の武器庫からも貨車2千両以上に満載した兵器や軍需物資が搬入された。

 しかし、日本軍との戦いを通じて鍛え抜かれた国民政府軍は精強で、ほとんど実戦を経験していなかった共産党軍は歯が立たなかった。ソ連軍が撤退した1946年5月からわずか数週間後には、国民政府軍は満洲の主要都市すべてを奪い、中共軍は崩壊寸前まで追い込まれた。

 ここでもまた毛沢東に救いの手が現れる。アメリカのマーシャル将軍が国民政府軍の侵攻を中止させたのである。マーシャルは米政権内に巣くう親ソ派だった。以後、ソ連の援助を受ける共産党軍と、アメリカの援助を受けられない国民政府軍の形勢は次第に逆転していく。[c]

 もっともソ連からの援助を無償で貰っては借りを作ると考えた毛沢東は、毎年100万トンの食料を送ると約束した。そのために、満洲地方から容赦なく食料を徴発し、1948年には数十万人規模の餓死者を出した。また国民政府軍の立て籠もる長春を攻撃したときは、毛沢東は城内を兵糧攻め責めにせよ、と命じ、50万人の民間人の脱出を許さなかった。5ヶ月後に落城した時には、50万人の人口が17万人に減っていた。

 1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の楼上に立ち、中華人民共和国の成立を宣言した。その頃、林彪は「民衆は政権交代に歓喜しているようには見えない」と、ソ連に伝えている。

 それも当然だろう。中国共産党政権は、中国人民が求めて得たものではない。毛沢東がスターリンの意向を受けて、日本軍を引きずり込んで国民政府軍との全面戦争を戦わせ、その後も国共内戦で国土を荒廃させた末に成り立ったものである。

 しかし、中国人民の苦難はこれで終わりではなかった。権力のためには民衆の苦しみなど歯牙にもかけない毛沢東によって、 2千万人もの餓死者を出した「大躍進」や、40万人もの死者 を出した「文化大革命」へと続くのである。[d,e]
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(239) 満洲 ~ 幻の先進工業国家
 傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以 上の中国人がなだれ込んだ理由は?
https://note.com/jog_jp/n/n82ec2268dde0

b. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日 の「赤い東亜共同体」が実現する!
https://note.com/jog_jp/n/n4ed9f1ef23a0

c. JOG(441) 中国をスターリンに献上した男
 なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡 してしまった のか?
【リンク工事中】

d. JOG(109) 中国の失われた20年(上)  ~2千万人餓死への「大躍進」
【リンク工事中】


e. JOG(110) 中国の失われた20年(下)  ~憎悪と破壊の「文化大革命」
【リンク工事中】

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. ユン・チアン『マオ 上』★★★、講談社、H17

  2. 中村粲、「大東亜戦争への道」★★★、展転社、H3

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