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JOG(379) 文明開化の志士、福澤諭吉

無数のイギリス軍艦が浮かぶ香港で、諭吉は何を考えたのか。


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■1.「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」■

 「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」 福澤諭吉の生涯は、この武士としての意地から始まったのではないか。「親の敵」とは比喩ではない。諭吉の父親は学問を志しながらも、下級武士として細々とした事務的な仕事しか与えられずに、45歳の短い生涯を終えた。

 父の生涯、45年間のその間、封建制度に束縛せられて何事もできず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児(生まれたばかりの諭吉)の行末をはかり、これを坊主にしても名を成さしめんとまで決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤(いきどお)るとともに、亡父の心事を察して独り泣くことがある。私のために門閥制度は親の敵でござる。[1,p24]

「親の敵」とは、武士にとっては一生涯をかけても必ず討ち果たさずには面目の立たない敵を意味した。

 門閥制度は、諭吉の若い頃こそ私的な「親の敵」であったが、やがて西洋の学問を学び、欧米を見聞し、そのアジア侵略の実情を目の当たりにするにつれて、門閥制度から日本国民を解放し、一人ひとりが独立自尊の精神を持って、その智徳と思想、技術を磨かなければ、日本の独立を守れない、という考えに成長していった。

 明治政府が徳川幕府を倒した後は、ほぼ諭吉の考え通りの方針がとられたのだが、それには幕末から明治にかけての諭吉のそれこそ「親の敵」を討たんとするばかりの、文明開化に向けた必死の文筆活動が原動力となっていたのである。

■2.家老の息子の悪巧み■

 諭吉が生まれたのは、天保5(1835)年、大阪の中津藩蔵屋敷であった。蔵屋敷で売買などをしていた父親が亡くなると、母は乳飲み子の諭吉とその兄姉たちを引き連れて、九州豊前の中津藩に戻った。少年諭吉は障子の張り替えや下駄づくりなど、細々とした仕事をして家計を助けた。

 21歳の時に転機が訪れた。安政元(1854)年2月、藩家老の息子・奥平壱岐が留学している長崎に、従僕の資格で移り住んだのである。壱岐の紹介で、山本物次郎という砲術家の家に住み込み、雑用をしながら、そこの書生にオランダ語を習った。

 鋭敏・勤勉な諭吉が山本から目をかけられるようになると、わがまま息子の壱岐は嫉妬して、諭吉を中津に帰そうと奸計を巡らした。家老の父に頼んで、諭吉に「母、急病につき至急帰郷せよ」という手紙を書いて貰ったのである。

 国許の友人から悪巧みを知らされた諭吉は一度は激怒したが、家老の息子と喧嘩しても勝ち目はないと、計略に引っ掛かった振りをして国許に帰ると見せかけ、そのまま大阪に行き、つてを得て、名医・緒方洪庵(おがたこうあん)が蘭学(オランダ語を通じた西洋の学問)を教える適塾に入門した。

■3.「道のため、人のため」■

 蘭学には身分は関係なかった。適塾は自由な雰囲気に溢れ、蘭学の実力だけが問われた。諭吉は喜びと感動を味わいながら、西洋の学問を、砂が水を吸収するように学んでいった。

 昼夜の別なく机に向かい、疲れれば机の上にうつ伏せになるか、床の間の端を枕にうたた寝をする。月に6回、会読と言って何人かで集まって、原書を訳す。その出来不出来で学力を競い合い、等級がつけられる。

 入塾した一年目、諭吉は腸チフスにかかってひどい熱が出た。すると、洪庵は「俺はお前の病気をきっと診てやる」と忙しい合間をぬって、毎日診察に来てくれた。これは諭吉には生涯、忘れられぬ思い出となった。

 洪庵はドイツの医書から医者に対する訓戒をまとめていた。その一節にはこうあった。

 医者が世に生きるのは、人のためだけであり、己のためではない。安逸を思わず、名利を顧みず、ただ己を棄てて人を救うことを念願とせよ。

 そして洪庵はよく手紙を「道のため、人のため」と結んだ。洪庵の看病はまさにこの精神の実践であった。その姿勢から、諭吉は学問とは「道のため、人のため」ということを胸に深く刻んだのであろう。

■4.新たな志■

 入門して3年目の安政4(1857)年、諭吉は塾長になった。さらに翌年には、中津藩から、江戸に行って中津藩士に蘭学を教えるようにとの命令を受けた。ペリー率いる黒船の来襲から、各藩は競って蘭学の勉強を始めたのである。

 藩からは家来一人を連れて行けるだけの支度金が出たが、諭吉はそれを使って塾生2人を連れていった。一人でも多くの人物を育てたいという「道のため、人のため」である。

 江戸で10人ほどの門下生に蘭学を教え始めたが、安政6(1859)年、横浜が開港して外国人の居留地が出来たと聞いて、早速行ってみたが、諭吉のオランダ語はまったく通じない。ようやくオランダ語のできるドイツ人と出会って聞いてみると、ここでの言葉は英語だという。

 丸5年も死の物狂いで勉強したオランダ語が通用しない現実を知って「一度は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それからはいっさい万事英語と覚悟を決め」た。英語の出来る人を探し回り、ようやく幕府の通詞(通訳)を務めている人が英語を知っていると聞くと、毎朝一時間もかけて、その人のもとに通い、英語を学んだ。学問の志のためなら、どんな苦労も厭わない諭吉であった。

■5.米国の富強■

 英語に志してから4、5ヶ月後、諭吉は幕府がアメリカに使節を派遣する事を聞いた。前年締結された日米修好通商条約の批准書交換をワシントンで行うためであった。幕府の正使を迎えるためにアメリカは軍艦ポーハタン号を差し回した。しかし、幕府はオランダから購入した咸臨丸(かんりんまる)を日本人だけで操船して、護衛につけた。あくまで対等国として渡り合おうという独立国としての「意地」もあろう。
 この話を聞いた諭吉は、何とかしてこの未知の大国を自分の目で見、実際の英語に触れたいと思った。そこで幕府で地位の高い蘭学医・桂川甫周(ほしゅう)に咸臨丸の一員に加えてもらえるよう周旋を頼んだ。桂川は諭吉の人柄と蘭学の実力を認めていたので、咸臨丸の提督・木村摂津守喜毅(よしたけ)に推薦した。木村は諭吉を引見したうえで、即座に従者として連れていくことを許した。

 一行はサンフランシスコで大歓迎を受けたが、同時に諭吉は見るもの聞くもの、驚きの連続だった。高価な絨毯を大広間に敷き詰め、それを靴で踏みつける。江戸では火事があると「釘ひろい」が出るのに、こちらではあちこちに鉄がゴミ同然に棄ててある、等々、米国の富強ぶりを目の当たりにした。

■6.国力の差■

 帰国後、木村の紹介により、幕府の外国方(今の外務省にあたる)で翻訳に従事していると、今度はヨーロッパ行きの命令が下った。米国と同様、英仏にも外交使節を派遣することになり、その翻訳方に任命されたのである。

 文久元(1861)年12月、イギリス差し回しの軍艦オーディーン号で品川を出発し、長崎経由で香港に着く。そこでの光景は生涯、忘れられないものになった。 

 いたるところイギリス船がいかりをおろし、その保護のために無数の軍艦が海上にあった。

 中国人の小商人が艦にやってきて諭吉らに靴を売りつけようとしていた。諭吉は一足買うつもりで値段の交渉を始めた。退屈まぎれにわざと手間取っていると、事情を知らないイギリス人がそれを見て飛んできた。何か狡猾な小商人とでも思ったのか、その靴をサッと奪い取り、2ドルを諭吉に出させると、中国人に投げ与え、ものも言わずにステッキをふるって艦から追い出してしまった。中国人は価の当否も言わずただ恐縮して出て行った。

 これを見た諭吉は・・・慨然として国力の差を痛感し、世界の海を制圧しているイギリスの国威を羨むしかなかった。[1,p168]

 当時の日本は、極東の一小国。列強に軍艦と大砲で脅かされ、国内は幕府と薩長が勢力争いをしていた。諭吉は、清国のように日本が欧米列強に蹂躙されることは絶対あってはならない、と考えた。

■7.「富国強兵の本は人物の養育」■

 ロンドンでは、清国からの留学生が諭吉らのホテルを訪ねてきた。彼は東洋の革新のためにはお互いに西洋文明を輸入することである、と述べ、「今の日本で洋書を読めてその意味を理解し、かつ教えられる人は何人ぐらいいるか」と聞いた。

 諭吉が「正確には分からないが、日本国中ではおよそ500人はいるでしょう」と答えた。「清国ではいかがか」と問うと、相手は指折りしながら数え、「11人にすぎない」と嘆息した。

 諭吉は密かに思った。日本は開国後わずか10年に満たないが、洋学は90年前の杉田玄白らによる『解体新書』翻訳から始まっており、洪庵のように富貴や栄達を求めず、ひたすら「道のため、人のため」に、金にもならない洋学を志す人々が500人はいる。

 それに対して、清国は開国以来ほとんど100年余。その間2回も外国と戦い、西洋文明の強勢ぶりを目の当たりにしながら、数億の国民中、洋学を志すものわずか11人とは。彼らの英語は、単に茶を売るために”tea"の語を知るのみ、目先の金を売るためだけの英語に過ぎない。これでは進歩に遅れをとるだろう。

 諭吉は、欧州各国で議会制度、陸海軍の規則、会社の仕組み、民間による鉄道事業・ガス事業など、西洋文明の仕組みを貪るように観察し、また多くの洋書を購入した。

 ロンドンからは、中津藩の重役に軍政改革・洋学振興を促す手紙を書き送っているが、その中には次のような一節があった。

当今の急務は富国強兵です。富国強兵の本は人物の養育に専心することです。[1,p174]

■8.『西洋事情』の衝撃■

 約一年の欧州視察から帰ってくると、日本国内は攘夷一色に染まっていた。京都を尊王攘夷派が押さえ、攘夷決行を要求して幕府を難詰し、「天誅」という名の暗殺が横行した。攘夷浪士らは外国人と見るや危害に及んだ。
 諭吉は幕府の外国方で、外国との緊迫したやりとりの文書を翻訳する多忙な仕事の傍らで、英学塾で人材育成を図り、また『西洋事情』の執筆に打ち込んだ。攘夷論一色、暗殺横行の殺伐とした世情を横目に、諭吉は日夜、西洋紹介のための筆を賢明に走らせた。こういう生活が4年続いた。

 慶応3(1867)年1月、諭吉は二度目の渡米の機会を得て、出発したが、その前年末に『西洋事情』を出版していた。それを読んだ攘夷浪士が「西洋かぶれの福澤諭吉、けしからん」と斬りつけようにも、日本にいなければ仕方がない。

 しかし、そんな心配は無用だった。『西洋事情』は諭吉が渡米している間に、日本国中にすさまじい反響を呼んだ。正式な版だけで15万部を下らず、偽版も入れれば20万から25万部は売れたという。

 坂本龍馬は『西洋事情』を読んで「船中八策」をつくり、土佐の後藤象二郎に示した。これをもとに後藤は大政奉還の建白書を書き、将軍・徳川慶喜に提出した。後藤が慶喜に謁見して、大政奉還を説いた所が、慶喜は後藤などより西洋の事情に詳しく、後藤を驚かせたが、これは慶喜自身が『西洋事情』を丁寧に読んでいたからだという。

『西洋事情』は岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文など朝廷や薩長の指導者層にも、広く読まれた。特に西郷は諭吉の著書に多大の影響を受け、『文明論の概略』を「その識見、議論の卓絶せるのを賞賛してやま」ず、少年子弟に勧めた。また西南戦争前に東京に滞在していたおりには、鹿児島の子弟に諭吉の塾に入るよう勧め、西郷自身が保証人となった慶應義塾入門者も2名いる。西郷を西洋文明に理解のない時代遅れの封建主義者と捉える見方は見直しの必要がある。

■9.新しい日本を作るための一大事業■

 慶応4(1868)年3月14日、京都紫宸殿で明治天皇が「五カ条の御誓文」を神明に誓われた。その冒頭の一条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」で、「会議」、「公論」の語句は『西洋事情』からとったとされている。

 第4条の「旧来の陋習(ろうしゅう、悪い習慣)を破り、天地の公道に基づくべし」は、四民平等によって諭吉が「親の敵」とした門閥制度の打破につながった。さらに第5条の「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」は、諭吉の学問への志そのままであった。こうした「文明開化」による他に、国家の独立を維持する道はない、という諭吉の考えが、明治日本の国家方針として宣明されたのである。

 この同じ日に、西郷が官軍の参謀として江戸の薩摩屋敷で勝海舟と会見し、江戸城の無血開城が決まった。5月15日、これを不服として、上野寛永寺に立て籠もる彰義隊を、官軍が攻撃。大砲の音は芝の慶応義塾まで響き、塾生たちは不安に落ち着きを失った。講義していた諭吉は、

 上野と芝では二里も離れているから大砲の弾が飛んでくる気遣いはない。こんな戦争は3日と続かない。すぐに鎮まるから慌てることはない。

と、塾生たちを席につかせ、講義を続けた。戦いは近いうちに終わり、高い文明をもつ独立国家・日本を建設するための一大事業が始まる。その日のために、諭吉は一日も早く、一人でも多くの人材を養成しなければならないのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(369) 独立国家とコモン・センス~ 「国際派時事コラム」泉幸男氏との対話
 福澤諭吉曰く「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」【リンク工事中】

b. JOG(149) 黒船と白旗
 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食 の近代世界システムへの屈服を要求していた。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 川村真二『福澤諭吉 快男児の生涯』★★★、日経ビジネス文庫、H12


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