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JOG(184) セント・ポール大聖堂にて ~ 大英帝国建設の原動力

そこここに立つ偉人の彫像や記念碑は、未来の「精神の貴族」を育てる志の記憶装置である。


■1.セント・ポール大聖堂■

 すでに4月になろうとしているのに、ロンドンの空は薄曇り で、肌寒かった。地下鉄の駅から出ると、目の前に黒ずんだ 巨大なセント・ポール大聖堂がそびえ立つ。ドームの高さは 110mで、ローマのサン・ピエトロに次いで世界で2番目だ という。朝まだきで、観光客はまばらであり、それだけに厳粛 な雰囲気がただよう。

 大聖堂の中に入って目を引くのは、天井のモザイクや、ステ ンドグラスではない。装飾の美しさではパリのノートル・ダム 大聖堂などの方が印象的であった。このセント・ポール大聖堂 が独特なのは、そこここに立つ偉人の彫像や記念碑である。

 フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー沖で撃滅したネルソン提督、ナポレオンをワーテルローの戦いで破ったウェリントン公、英国最高の詩人の一人ジョン・ダンなどの記念碑や彫像が並び立つ。

 地下室へ降りるとネルソン提督とウェリントン公の巨大な棺を中心に、クリミア戦争で戦傷者看護に貢献したナイチンゲー ル、ペニシリンを発見したフレミングなど著名な人々の墓碑銘があり、またや床には様々な人々を顕彰するレリーフやら銘板が所狭しと埋め込まれている。

(冒頭写真)Diliff - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33155660による

■2.個人顕彰の伝統■

 個人を顕彰する、という行為は、イギリス文化の顕著な特徴の一つであるように思える。彫像や記念碑だけでなく、英国ほど伝記文学の盛んな国もないだろう。19世紀の政治家・作家のディズレリーは、「歴史など読むべきではない。但し、伝記を除いては。というのも、伝記だけが理論(セオリー)を含まない、唯一のまともな歴史だから」と語った由である。[1,p7]

 マルクス主義史観のような「理論」を軽蔑し、あくまでも個人がその人生をどう生きたか、という具体的事実を尊重するいかにもイギリス人らしい姿勢である。その志向は、個人の肖像画、彫像、写真などを約1万点も集めたナショナル・ポートレイト・ギャラリーにも見てとれる。

 思想についても同様で、この国ではドイツ流の観念哲学などは流行らない。19世紀の大英帝国最盛期のベストセラーのひとつが、サミュエル・スマイルズの "Self Help, with Illustrations of Character and Conduct"(「自助論」、[2])であり、これは偉人の生き様を材料にした人生論である。

■3."Character"■

 スマイルズの本のタイトルにある "Character" という言葉に、英国人の個々の人間の具体的な生き方へのだわりがこもっているように感じる。この言葉は「人格」とか「品性」を意味するが、それは単に道徳的レベルが高いというだけでなく、堅忍不抜の精神力を持って、国家公共のために尽くすという生き方に対する尊敬がこめられている。中西輝政・京都大学教授は「大英帝国衰亡史」[1]で「精神の貴族」という訳もあてられている。日本語で言えば「士道」に近い語感を持つ。

 大英帝国は地球上の面積の4分の1、人口の6分の1を支配し、なおかつ産業革命、金本位制、自由貿易、議会制民主主義、法治制度、英語などの多くの経済的、文化的遺産を残した。しかしその出自はヨーロッパ大陸の端の小島に住む弱小混血民族であって、土地も人口も物質資源も限られていたことを考えれば、その成功の要因は何らかの精神的要素にしか求め得ない。

 セント・ポール大聖堂の地下祭室のおびただしい記念碑やプレートをながめつつ、"Character"という言葉に象徴される英国流の理想が、大英帝国建設の原動力になったのではないか、という思いがしきりにした。

■4.ウェリントン公の奮闘■

 "Character"の実例を見てみよう。セント・ポール大聖堂に顕彰されているウェリントン公は、スマイルズの「自助論」にも登場する英国の国民的英雄である。公は軍務についた最初の10年間で、軍における実務処理や統率が将兵の士気に大きく影響することを学び、1797年にインドに派遣されてからは疲れも知らずに、細かな事まで掌握し、部下の規律を最高水準にまで引き揚げようと奮闘していた。

 マイソール州の州都司令官に任命されたウェリントン公は、1500名のイギリス兵と5千名のセポイ兵の混成部隊を率いて、2万の歩兵、3万の騎兵からなるマラータ族を打ち破る。戦争後、勝利に酔いしれた兵士たちが、暴徒と化して略奪を始めるのを止め、市場を復興して、生活必需品の供給を軌道に乗せた。上官のハリス将軍は、次のようにインド総督に報告している。

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 彼が物資の供給に関して賢明かつ断固たる措置を取った おかげで、自由に商品売買ができるようになりました。市場には物資があふれています。商人たちもわれわれを信用するようになりました。彼の仕事ぶりはまことに見事というほかありません。[2,p130]
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■5.債権者に縮こまる常勝将軍■

 非凡な指導力を買われたウェリントン公は、ナポレオン軍に占領されたポルトガルを解放するため、1万人の遠征軍の指揮官に任命された。公はポルトガル軍を指揮下において共同作戦がとれるように訓練し、3万の軍勢で、35万のフランス軍と戦って大勝利を収めた。その陰ではイギリス政府の無能、ポルトガル兵の裏切りなど様々な困難を実務的に解決していた。

 たとえばイギリスからの食糧供給の見込みがないと分かると、たちまち穀物商人に変身し、約束手形を発行しては地中海や南米の港で穀物を買いあさった。しかし公は占領地での略奪や徴用は厳禁したので、次のような手紙を残すほど、困窮した。
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 われわれは借金で首が回りません。私などは、おめおめ 外出もできないくらいです。なにしろ、債権者が負債の支 払いを求めて手ぐすね引いて待っているのですから。
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 「自助論」では、この手紙に関する次のような評を紹介している。
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 かくまで堂々として、しかも人格の高潔さを強くうかがわせる告白があるだろうか。三十年の軍歴を持つ老兵、鋼鉄の男、常勝の将軍が、大軍を率いて敵地に陣を構えながら、なおかつ債権者たちの前で縮こまっているいるという のだから。古今の征服者や侵略者の中で、このような不安 に心を悩ましたものは皆無に等しいだろう。戦いの歴史をひもといてみても、彼ほど崇高で純粋な心の持ち主はいないはずだ。[2,p134]
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 インドの領有と、宿敵フランスの打倒とは、大英帝国建設の大きなステップであった。ウェリントンなければ、インドは維持できず、ナポレオン軍には敗退し、イギリスは帝国建設の途上でスペインやオランダと同様、衰退の道を辿ったろう。ウェリントン公の人格の高潔さと、非凡な指導力と実務能力、そして奉公の精神、すなわち、公の"character"が、英国にとっても飛躍の一大要因であったことを窺わせる。

■6.ジェンナーの志■

 軍事以外の側面でも、大英帝国を築いた「精神の貴族」たちの一例を見てみよう。「自助論」で紹介されている種痘の発見者ジェンナーがその好例である。

 1749年に牧師の3男として生まれたエドワード・ジェンナーは14歳の時から、開業医のもとで7年間医学の修行する。その間に「牛痘にかかった人は、天然痘にかからない」という乳搾り女たちの言い伝えを聞いて、牛痘が予防効果を持つのではないか、と考えた。それを同僚の医師達に話すと、一笑に付されただけでなく、そんな突飛な説を振りかざして同業者達を困
らせ続けるなら、医者の世界から追放するしかない、と脅かされたほどだった。

 しかし、ジェンナーはあきらめずに20年以上も天然痘予防の研究を続け、23人の予防実験に成功して、その成果を本にまとめて出版した。この実験の中には、彼の息子も被験者として入っていた。

 種痘を広め、天然痘の災禍を食い止めようとするジェンナーはロンドンに赴いたが、当時の医学界から総スカンを食らって、郷里に引き揚げざるをえなかった。また牧師たちからは種痘が「魔法妖術のたぐい」であると非難され、種痘を受けた子供は「牛のような顔になって、角が生える」などといううわさが流された。

 しかし、貴族階級の二人の女性が勇敢にも自分たちの子供に種痘を受けさせたことで、偏見が打破されるきっかけができた。やがて、種痘の効果は広く認められ、ジェンナーは世間の尊敬を集めるようになる。ロンドンに移り住んで開業すれば、年収1万ポンドは固い、と勧められた時、彼はこう答えた。

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 若いころから私は、谷間(たにあい)の道を歩むように 静かでつましい生活を求めてきました。それなのに晩年の 今になって、どうしてわが身を山頂へ運んでいけましょう。 富や名声をめざすのは、私に似つかわしい生き方ではありません。[2,p66]
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 大英帝国は植民地主義と人種差別を基調とする近代世界システムの中心的プレーヤーであったが、中南米の先住文明を収奪し尽くしたスペインなどと大きく違う点は、近代科学、産業革命、法治制度、議会制民主主義など、近代化の面での世界史的貢献も顕著な点である。ジェンナーのような「精神の貴族」たちが、この面での原動力であった。

■7.高貴な精神の記憶装置■

 軍人のウェリントン公と医学者のジェンナー、分野はまるで異なり、また貴族と平民と出自も異なるが、その生き方には共通点がある。私利を図らず国家公共のために尽くす志、そして 艱難辛苦に耐えてその志を貫き通す堅忍不抜の精神力、まさに 大英帝国を築いたのはこのような「精神の貴族」なのである。 この二人の例だけでも、英領南アフリカの基礎を築いたヤン・ スマッツの次の言葉は納得できるだろう。

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 大英帝国が、世界中の諸民族や部族に及ぼしている支配 と統治の真の基礎は、軍事力などの力にあるのではなく、 その威信と、精神力にあるのである。[1,p7]
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 威信も精神力も「精神の貴族」達によって発揮される。こう した「精神の貴族」たちを無数に輩出したことが、大英帝国の 建設につながった。スマイルズは言う。
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 立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅を利かす。 国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。[2,p11]
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 しかしそれではなぜ、英国はこのような「精神の貴族」達を輩出しえたのだろうか? ここで思いは再びセント・ポール大聖堂に戻る。そこでの偉人たちの記念碑、さらにはその伝記や 「自助論」の物語などに囲まれて、英国の青少年たちは育ったのである。それはまさしく「精神の貴族」達の高貴な志を次代 に伝承する記憶装置ではなかったか。

■8.未来の「精神の貴族」を育てる■

 わが国にも偉大な人物を神として祀る伝統がある。また全国津々浦々に有名無名の人物を顕彰する無数の像や碑が立つ。さらに英国の伝記文学と比肩すべく、歴史物語、史談、講談が根強い国民的人気を持っていた。スマイルズの「自助論」も明治時代に「西国立志編」と題して訳され、100万部以上売れたと言われる。わが国も英国と同様、高貴な志の記憶装置にはことかかなかった。

 英国とわが国は、ユーラシア大陸の東西両端の離れ小島に位置し、遅れて文明化した弱小混血民族でありながら、近代史に巨大な足跡を残したという点で、著しい共通パターンをなす[a]。それも両国ともに豊かな記憶装置によって「精神の貴族たち」の輩出に成功してきたからであろう。
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 1903年(明治37年)、ついに日露戦争が始まった。日本軍 は苦戦を重ねながらも戦局を有利に進めた。しかし、日本 の戦力は限界に達し、ロシアでは革命運動がおこるなど、 両国とも戦争を続けることはむずかしくなった。1905年、 日本を支持してきたアメリカの斡旋で講和会議が開かれ、ポーツマス条約が結ばれた。
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 ある中学歴史教科書の一節である。当時、世界的に尊敬を集めた東郷元帥も乃木将軍も出てこない「歴史理論」に過ぎない。「歴史など読むべきではない。但し、伝記を除いては。」というディズレリーの言葉が思い起こされる。

 抽象的な歴史理論を知識として教え込むのみで、先人の生き方を教えない教育は、子どもたちが未来の「精神の貴族」に自己実現しようとする志の芽をつんでしまう。それはきわめて非人間的な行為ではないか。同時に国家としての自己実現をも阻んで国民全体の幸福を損なう道である。

 立派な国家は自助と公共の精神に富んだ国民が築きあげ、そうした国民は先人の高貴な精神の継承によって育てられる。わが国の歴史教育はまさにその正反対のことをしている。セント・ポール大寺院の地下祭室で、無数の顕彰碑に囲まれながら、そんな事がしきりに思われた。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(091) 平和の海の江戸システム
 日本人は平和的に「自力で栄えるこの肥沃 な大地」を築き上げた。
b. JOG(115) オランダ盛衰小史
 なぜオランダは「大英帝国」になり損ねたのか?
c. JOG(104) ヴェネツィア
 人工島の上に作られた自由と平等の共同体。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. 中西輝政、「大英帝国衰亡史」★★、PHP研究所、H9

  2. スマイルズ、「自助論」★★、三笠書房知的生き方文庫、S63

//////////// おたより ////////////
■「セント・ポール大聖堂にて 」について   瀧川さんより

 小さな頃、なぜか仏間に、曽祖父と曾祖母の写真が飾ってあ
りました。祖母がいつも口癖のように、「ご飯を残したら、目
がつぶれる、戦争に行けないよ」「靴は揃えて家に上がりなさ
い、挨拶は元気よく」「毎日、仏壇に手を合わせなさい」と言
われていたことを、40歳近くになってやっと理解できたよう
な気がします。「精神の貴族」は、それぞれの家庭という単位
にもあったはずなのです。記憶装置もしっかりあったような気
がします。

 次代のために、自分がやらなければならないことがあると思
います。だから亡くなった祖母に叱られています。今でも私の
枕もとに立つことがあります。何か言いたげな表情をして、そ
っと立っています。夜中にそんなことがあると、別の部屋で寝
ている子供の顔を見に行きます。なぜ、自分には子供を授けら
れたのだろうか、どうして祖母は私の前に現れるのか。

 自分がこの世に、この時代に生きているということは、先に
生きた人への感謝と、次に生きてゆく人に対する責任と受け止
めています。自分の人生は、そういうところに位置付けられる
と思います。小さくとも「精神の貴族」でありたいと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 瀧川さんは新城市の青年会議所で教育改革に取り組んでいら
っしゃいます。瀧川さんの呼びかけで、講演会をさせていただきました。青年実業家の皆さんが、多忙な本業の傍ら、地元の子供たちの教育に取り組んでいる姿に頭が下がる思いがしました。

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