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JOG(1386) 従業員を大御宝にすれば企業は繁栄する ~ 永崎孝文『日本人の心に生きる聖徳太子の「十七条憲法」』

 十七条憲法は、従業員が志をもって互いに支え合う、強い組織の作り方を具体的に説いている。


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■1.「聞いていない」「記憶がない」「部下に任せていた」

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 職場の組織風土を貶めることばがいくつかあります。何か問題が生じた時の「私は聞いていない」「私には記憶がない」という責任回避表現はその代表格でありましょう。また、「すべて部下に任せていた」「すべて請負業者に任せていた」ということばもあります。[永崎、p152]
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 政治家の不祥事が起こると、よく「聞いていない」「記憶がない」「すべて部下に任せていた」などという弁解の言葉を聴きます。最近の政治資金不記載問題や、某県知事のパワハラ疑惑でも同様の弁解を何度も聞きました。

 この一文は現代の政治評論ではなく、今から1400年以上昔に書かれた聖徳太子の十七条憲法の解説書『日本人の心に生きる聖徳太子の「十七条憲法」』の中の一節です。著者の永崎(旁(つくり)の上部分が「大」ではなく「立」)孝文氏は、30年ほど民間企業で勤めた後、京都大学で東洋思想を研究された方で、十七条憲法の解説にも実業家としての経験がよく窺えます。

 この一文は「第13条 同じく職掌を知れ」に関する説明の一部です。聖徳太子はこの条で自分の仕事だけでなく、同僚の仕事についても、よく心得ておくべき、と述べています。それでこそ同僚が病気や出張の際にも、代わって仕事を支障なくこなすことができます。

 たとえば、スーパーで魚貝類と野菜類の仕入れの担当が別れていたとしましょう。魚貝類の仕入れ担当が急病で休んだ際、野菜類の仕入れ担当が魚貝類の仕入れについてもある程度心得ていて、急遽その日の発注をカバーできたら、スーパーとしても問題なく営業できます。

 これがアメリカのように、「自分は野菜物の仕入担当として雇われているのだから、魚貝類は知りません」では、その日の仕入れに穴が空きます。互いの職掌を日頃からよく知っておいてこそ、顧客に迷惑のかからないよう、日々の運営ができるのです。
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縄張り意識を超えて多くの人と協調性を保持しながら仕事をすることにより、高度な仕事がより円滑に遂行でき、次第に職場における連帯感が生まれ、職場の人たちが互いに和するようになります。[永崎、p155]
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 職場で互いの仕事をよく知っておくというごく単純な事が、円滑な仕事、連帯感、そして「和」への具体的な道なのです。このように、永崎氏の著書は、太子の教えがいかに実践的なものか、現代人にもよく理解できるように説いているところが参考になります。

■2.「和」を阻害する人間の醜さ

 十七条憲法の「和をもって貴しとなす」という有名な一句から、現実を離れた綺麗事を述べたと思い込みがちですが、そうではありません。太子の時代は、豪族間の勢力争い、仏教導入に関する対立・内乱、さらに正史に残る唯一の天皇弑逆(しぎゃく、暗殺)までありました。

 その混乱の中で、人間性の醜い面も見据えて、より良い政治のあり方を当時の貴族官僚たちに説いたのが、十七条憲法なのです。永崎氏は十七条憲法の中で説かれる人間性の「醜さ」を次のようにまとめています。
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餮(むさぼり)[第五条]、 欲[第五条]、 諂(へつらい)[第六条]、 詐(いつわり)[第六条]、 佞(おもねり)[第六条]、媚(こび)[第六条]、忿(いかり)[第十条]、瞋(いかり)[第十条]、 怒(いかり)[第十条]、賦斂(ふれん)[第十二条]、 嫉妬[第十四条]など、みな私心・私情・我執の現れであり、
その私心・私情・我執から「恨」(こん)「憾」(かん)が生まれ、それがまた返報・展開して人は業の渦中に呑み込まれていきます。[永崎、p168]
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 これらの人間の醜さを一つずつ克服していかないと、真の「和」には到達できないのです。これは国家の政治においても、組織の経営においても言えることです。こうしてみれば、現代の企業人にとっても十七条憲法がいかに現実的な教えであるか、よく分かります。

■3.人はなぜ怒るのか?

 人間の醜さの克服方法を、永崎氏の解説を頼りに見ていきましょう。たとえば、第十条では、「忿」、「瞋」、「怒」と3つの「いかり」が挙げられています。これらは第十条冒頭の「忿を絶ち、瞋を棄てて、人の違うを怒らざれ」に含まれています。この3つの「いかり」の違いを、永崎氏はこう説明します。

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この「忿」は憤り怒る心の意を、「瞋」は怒って目をむく意を、「怒」は心がいきりたつ意を表すようです。・・・
 軽度の"いかり"は、ムカッとした立腹の状態で心の中に生まれますので「忿」、もう少し強い"いかり"は顔に表れ、特に目で睨みつけることから「瞋」、さらにそれが高じると"いかり"が爆発し、「何をやっているのだ!」と語気を荒げ、実際に手を上げることにもなる「怒」となります。[永崎、p119]
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 人はなぜ怒るのでしょうか? 太子が「人の違うを怒らざれ」と言うように、人は他者が自分と違うことをすると怒ります。たとえば、スーパーの店長が売上げ増大のために近隣の系列店との共同仕入れを拡大しようとしているのに、野菜売り場の主任が地元の生鮮野菜販売にこだわっていたら、「なぜ俺の考えが分からないのか」と怒ります。

 こうした怒りをいかに防ぐか。太子は第十条「人の違(たが)うを怒らざれ」で、こう説いています。
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[訳]人は皆それぞれ思うところがあり、またこだわり執着するところもある。他の人が正しくて自分が間違っていることもあれば、逆に自分が正しくて他の人のほうが間違っていることもある。そのように、必ずしも自分がすぐれているわけではなく、また他の人が愚かとも限らない。われらは共に凡夫ではないか。[永崎、p118]
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「共に凡夫」という人間観に立てば、人間には自分も含めて、様々な思い込みや執着があり、そこから「自分の考えも間違っているかもしれない。野菜売り場主任の意見もよく聞いてみよう」という態度が出てきます。

■4."凡夫を生きる心構え"

 この「凡夫」という言葉を、永崎氏は序文の冒頭で、「仏教における人間観を説く上で非常に重要なキーワード」として、こう解します。

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そこで本稿では、「凡夫」というものを「現在は己れの未熟さを自覚しており、少しでも未熟さを克服すべく努力・向上の意欲を持つ者」としてとらえ、"凡夫を生きる心構え"について思うところを述べてみたいと思います。[永崎、p4]
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「己れの未熟さ」を自覚し、「少しでも未熟さを克服すべく努力・向上の意欲」を持つ「凡夫」が、「人の違うを怒らざれ」という太子の教えを聞いたら、こう気づくかも知れません。

「店長の自分も凡夫だし、野菜売り場主任も凡夫だ。お互いによく話合ったら、主任も自分の考えを理解してくれるかも知れないし、また主任の「地場野菜を大切にしよう」という意見から、自分の考えの未熟な点に気がつくかも知れない」と。「共に凡夫」という気づきが、怒りを遠ざけ、互いの向上をもたらしてくれるのです。

■5.諂(へつらい)、詐(いつわり)、佞(おもねり)、媚(こび)

 第六条の諂(へつらい)、詐(いつわり)、佞(おもねり)、媚(こび)も見ておきましょう。第六条はこう説いています。[]は弊誌の注です。
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 心にもないことを言って他人の気に入るようにご機嫌をとり[諂]、人を欺きだます[詐]者は、国家を覆す利器(鋭い道具)のようなもので、人民を塗炭の苦しみに陥れる鋭い剣(殺人剣)ともいえる。またうわべの口先だけで誠意がなく[佞]、媚び諂って相手の気を引こうとする[媚]者は、上司に向かっては好んで部下の過ちを告げ口し、部下に向かっては上司の過失を非難しけなす。
こういう人はみな、君主(組織の長)に対する忠節の心がなく民(部下)に対しても仁愛の心を持たないもので、国(あるいは組織)の大きな乱れの本となるものだ。[永崎、p81]
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 職場においても、こういう人間がはびこるようでは、組織のやる気は失せてしまいます。たとえば、惣菜売り場主任が実力も無いのに店長に媚びへつらって、店長補佐に出世したとしたら、他の人々が真面目に仕事に取り組もうとする気を失ってしまうでしょう。それこそ店を倒産させる利器(鋭い道具)、店員とその家族を「塗炭の苦しみに陥れる鋭い剣」になりかねません。

■6.「凡夫」が、努力して"人物"となる道

 こういう状態を防ぐには、どうしたら良いのでしょうか? その答えを太子は、次の第七条に置いています。
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人にはおのおの任務があり、その任務にでたらめがあってはならぬ。・・・この世には、生まれながらにして英知豊かでわが命[天命]を悟った人は少なく、よく思慮を重ねて学んでこそ聖人(立派な人)となるのだ。[永崎、p89]
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 聖人とは、キリストや釈迦のような宗教的聖人というよりは、この訳にあるように「立派な人」、そして永崎氏が後の説明で使っているように「人物」というほどの意味に捉えるのが良いでしょう。凡夫がいかに「人物」になるか。ここでは、人それぞれの任務に誠実に取組むこと、そして、「よく思慮を重ねて学ぶ」ことを太子は説かれています。
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多くの人は縁あってなんらかの仕事に就きます。・・・どんな仕事であっても、それが世の中に必要で訳に立つ仕事である限り、全力を尽くすべきです。[永崎、p96]

・・・「自分の志したことを、常に自分に誠実に、自分なりの工程を踏んで歩んでいくこと」・・・それが、己れの未熟さを自覚している「凡夫」が、努力して"人物"となるための基本的な覚悟であるといえましょう。[永崎、p96]
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 こういう「人物」が、それぞれの売り場で仕事に真剣に取り組んでいるスーパーは強いでしょう。

 前の6条では、上司に諂(へつら)ったり、佞(おもね)ったり、媚(こび)たり、詐(いつわ)ったりする事を戒めていました。それは任務を無視して、自分の出世や保身を図ることです。それではスーパーは、良い商品を安価に安定的に顧客に提供するという本来の役割を果たせません。

 そもそも、店長が自分の任務に集中していたら、同様に自分の任務に真面目に取組む部下を重用するはずで、媚び諂らうような人は相手にしないでしょう。そういう上司のもとでは、媚び諂いも自ずから消えていくのです。

■7.従業員を大御宝とする

しかし、個々の「人物」がそれぞれの仕事に真剣に取り組んだとしても、その目指す方向がバラバラではうまく行きません。ここで、十七条憲法冒頭の「第一条 和を以て貴しと為す」の出番となります。その結びは、こうなっています。
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[訳]みんながお互いに和やかな心で親しみをもって論じ合えば自ずと道理が通じ合い、どんなことでも解決できないものはないであろう。[永崎、p32]
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 人はそれぞれ体格や顔つきが千差万別であるように、才能や適性も考えも異なります。そうした多様な才能と適性、考えをもった人々が、和やかな心で論じ合えば、そこから皆の知恵が集約されて、個々人の知恵よりもはるかに優れた組織の知恵が出てくるのです。

 スーパーの例で言えば、店長は系列店の店長たちをよく知り、野菜売り場の主任は地場の農家と顔なじみです。二人で和やかに話合えば、地場で旬の野菜がたくさん採れた時には、余剰分を近隣の系列店でも売って貰おう、というアイデアが出るかも知れません。そして、系列店どうしで、それぞれの地場野菜を供給すれば、地域全体にも貢献できます。

 聖徳太子の唱えた「和」とは、単に「仲良くせよ」というだけではなく、個々の人間の多様な才能、適性、考えを生かして、それらを統合した共同体としての知恵と力を生み出す組織原理なのです。

 拙著『大御宝 日本史を貫く建国の理念』[伊勢]では、神武天皇が民を「大御宝」と呼び、その安寧を実現することが建国の理想となっていることを述べました。

 聖徳太子の十七条憲法は民を大御宝とするための貴族官僚たちの心構えを説いた内容ですが、それを職場に適用したら、従業員を「大御宝」として、その安寧を実現し、企業全体の繁栄に導く方針を次のようにまとめられるでしょう。
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・すべての従業員が、組織の一員として、生かされていることに感謝し、
・それぞれの自分の居場所を守って、互いに支えあう、充実した職業人生を歩み、
・その「仕合わせ」によって繁栄する組織を築く
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 聖徳太子の十七条憲法は、こういう組織を築く具体的な道を説いているのです。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

・伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』、扶桑社、R06
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・永崎孝文『日本人の心に生きる聖徳太子の「十七条憲法」』★★★、扶桑社、R06
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