JOG(745) 大山捨松(上)~日本初の女子留学生
12歳でアメリカに渡った捨松は、伸び伸びと育ちながらも、国を思う心は忘れなかった。
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■1.「ずいぶんとむごいことをする親もいるもんだ」
明治4(1871)年11月12日、横浜港沖にはマストに日米両国の国旗を掲げた郵便船アメリカ号が停泊していた。欧米諸国を巡回して西洋文明を調査しつつ、不平等条約改正の予備交渉を進めようという岩倉使節団の出発の日である。
波止場は総勢107名の大使節団を見送る人出でごったがえしていたが、その中でも人々の注目を集めたのは、駐日公使デロング夫人に付き添われて、小舟でアメリカ号に向かう5人の少女たちであった。15歳から8歳までのいたいけな少女たちは、これからアメリカに10年も留学する予定だという。
「ずいぶんとむごいことをする親もいるもんだ。あんなに幼い娘をアメリカくんだりまで学問をさせにやるなんて、きっと母親の心は鬼にちがいない」と人々は囁(ささや)きあった。
アメリカに女子留学生を送るという計画は、北海道の開拓使次官・黒田清隆と米国弁務公使・森有礼の発案であった。米国の西部開拓を学ぶために訪米した黒田は、社会で活発に発言し、男性と対等に仕事もする米国人女性の姿に驚いた。
訪米中、黒田は森と毎晩のように議論を交わし、日本の近代化には女子も留学させる事が必要との結論に達した。岩倉使節団の人選を行っていた岩倉具視がこの案に賛成したため、使節団に同行する男子留学生とともに、女子も連れて行くことにしたのである。
しかし獣の肉を食べ、赤い酒をがぶ飲みするような毛唐の国にまで娘をやろうとする親などいなかった。出発の間際になって、なんとか集めたのが、この5人の少女だった。
■2.「捨松」との改名
15歳の二人に続いて、12歳の山川捨松(すてまつ)、9歳の永井繁子、8歳の津田梅子がいた。津田梅子は後に捨松の協力を得て、女子英学塾、現在の津田塾大学を創立した人物である。
捨松がアメリカ行きを知らされたのは、わずか一ヶ月ほど前だった。生家・山川家は会津藩家老の家柄だったが、藩が幕末の会津戦争に敗れ、陸奥国斗南(青森県むつ市)の地に移封されると、極貧の生活を続けていた。
捨松の15歳も年上の長兄・山川浩は、藩の指導者として、自ら進んで粗衣粗食の生活を送っていたが、慶応3(1876)年には、幕府外国奉行・小出大和守が日露国境協定調印のためロシアを訪問した際に随行して、ヨーロッパ諸国を見聞していた人物である。
次兄・健次郎も、開拓使派遣の留学生として、この年1月にアメリカに渡っていた。かつて敵対した藩の出身であろうと、優秀な人間を留学させ、将来の国家を支える人材にしようというのが、明治政府の方針であった。
兄・浩が捨松にアメリカ行きの話を持ち出したのは、出発のわずか1ヶ月ほど前、10月初めのことだった。
この時は、捨松はまだ幼名で、咲子という名前だった。「捨松」という名前を与えたのは母親だった。これがお前との永の別れとなるかも知れない。お前を「捨」てたつもりで遠いアメリカにやるが、お前がお国のために立派に学問を修めて帰って来る日を心待ちにして「待つ」ているよ、という切ない気持ちを込めたのだった。
■3.サンフランシスコでの大人気
アメリカ号は太平洋を2ヶ月ほどで横断して、翌1872(明治5)年1月15日にサンフランシスコ港に到着した。一行は市内のいくつかのホテルに分かれて、旅装を解いた。
小さな箱に入ると、急に宙づりにされて上の階に連れて行かれたり、便所では用を足して紐を引っ張ると水が流れたりと、見るものすべてに驚かされた。
一方、アメリカ人もこの「ミカド」の国からやってきた一行に多大な関心を寄せ、各新聞は連日、大きなスペースをさいて報道した。その中でも、現地の人気をすっかり独占してしまったのが、5人の女子留学生であった。
この服は、出発前に支度金でつくった振り袖であろう。5人は出発の数日前にこれを着て皇后に拝謁し、帰国後は「婦女の模範」となるよう学業に励むべし、とのお言葉をいただいている。
使節団も大歓迎を受けたが、その中でも5人の女子留学生は「なんとチャーミングな」「元気溌剌とした」「礼儀作法をよくわきまえた」などと、報道された。会津藩の厳格な士風の中で育った捨松を代表に、みな武家の厳しい躾を受けた娘達は、作法の異なるアメリカ社会においても賞賛の的であった。[a,b]
■4.「私達は皆すっかり彼女の虜になってしまいました」
その後、使節団はワシントンに向かった。その頃には、5人の娘達はアメリカの洋服を着こなし、アメリカ流の礼儀作法を身につけて、ワシントンでも「立派なレディ振り」と絶賛された。
しかし、そのうちに15歳の娘二人はホームシックから体調を崩し、日本に帰された。残る3人は1872(明治5)年10月末、それぞれ別々のアメリカ人家庭に引き取られて、教育を受けることとなった。
捨松はニューヨークとワシントンの間にある美しい町ニューヘイブンのベーコン牧師の家に寄宿した。ここは1638年にボストンの清教徒の一部がイギリスの支配から逃れて作った町で、敬虔かつ教育熱心な土地柄であった。名門エール大学もこの地にあり、ここに次兄・山川健次郎が留学していた。[c,d]
会津藩の質実剛健な武家で育てられた捨松は、謹厳で質素な土地柄、家柄によく合ったのだろう。ベーコン牧師は「優しい子で信頼がおけ、私達は皆すっかり彼女の虜(とりこ)になってしまいました」とスイスに住む息子に書き送っている。
身体が弱く、ほとんど家に籠もっていたベーコン夫人は、素直で頭の良い捨松に勉強を教えることに生きがいを見出し、すっかり明るくなった。
捨松も2歳年上の末娘アリスと姉妹のように仲良くなった。ベーコン家の向かいに住むエール大学のホイットニー教授の娘マリアンは、捨松より2歳ほど年下で、毎日のように一緒に遊んだり、勉強したりする仲になった。マリアンは、後にこう回想している。
捨松は、こういう溌剌(はつらつ)とした生活を送りながら、ベーコン家の実の娘のように元気に育っていった。
■5.高校で学んだボランティア精神
1875(明治8)年9月、16歳になっていた捨松は、近くの男女共学の公立高校ヒルハウス・ハイスクールに入学した。
ニューヘイブンには上流階級の女性たちだけで集まる「アワー・ソサエティ(私達の会)」という会があって、貧しい人々へのボランティア活動をしていた。捨松はアリスのゲストとして、会合に出入りし、会員達と一緒に赤ん坊のおむつを縫ったり、子供服を作ったりした。
この活動を通じて、捨松はボランティア精神を学び、女性に与えられた能力を発揮することによって社会に貢献することができ、またそうする義務がある、という事を身をもって学んだ。
後に捨松は、陸軍大臣大山巌夫人となってから、ここで学んだボランティア精神を発揮して、日本最初の慈善バザーを開いている。
捨松が高校に入学した年の夏、次兄・健次郎がエール大学での留学を終えて、日本に帰国することとなった。健次郎は、妹が祖国への愛国心を持たないアメリカかぶれの娘になる事を恐れて、週に一度は捨松を呼び寄せて、日本語の勉強を見てやったり、人として歩むべき道を説いて聞かせたりしていた。
健次郎は帰国後もたびたび捨松に手紙を送り、国際政治に関することなどを説いた。兄の教えで、捨松の心中には祖国を思う気持ちが芽生えていったようだ。
■6.「秘めたる力」
1878(明治11)年9月18日、18歳の捨松は6年間世話になったベーコン家から離れて、一緒に日本を出発した永井繁子とともに、東部きっての名門女子大学ヴァッサーカレッジに入学した。
「ミカド」の国から来た二人は、たちまちキャンパスの人気者となった。二人の親友となった女子学生は、次のように書いている。
大学の創立記念日には、目もさめるような美しい日本の着物を着て、式典長の役を見事にやりとげた。教授陣の間でも捨松は高く評価されており、英文学の教授ヘレン・バッカス女史は、捨松の思い出を次のように書いている。
■7.ベーコン牧師の写真
3年生のときに10年の留学期間が過ぎて、日本政府から帰国命令が届いたが、あと一年で晴れて学士号を手にして卒業したいとの固い決意を日本政府に書き送り、1年間のみという条件で延長許可を得た。
その年のクリスマス・イブの日に、80歳間近のベーコン牧師が亡くなった。牧師の写真を送ってくれたベーコン夫人に、捨松は次の手紙を書いている。清らかな人柄がにじみでている文章である。
■8.卒業式の演説での熱狂的な喝采
1882(明治15)年6月14日、卒業式を迎えた。捨松は最初にアメリカの大学で学士号を授与された日本人女性、いやアジアの中でも初の女性となった。
礼拝堂の壇上に並ぶ39名の卒業生の中で、捨松は美しい着物を着て前列に座った。10人の卒業生代表の一人に選ばれて、演説をするのである。来賓の中には、わざわざニューヨークから来た高橋総領事の姿も見えた。
9人目に壇上に立った捨松の着物の見事な刺繍に、礼拝堂を埋め尽くした観客から思わず溜め息がもれた。しかし捨松の行った演説はさらに素晴らしいもので、途中しばしば拍手のために中断され、演説が終わった時にはしばらくの間、拍手が鳴り止まなかった。
演説は「イギリスの日本に対する外交政策」と題して、イギリスが不平等条約によって日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のために闘うことを決して止めないであろう、という内容だった。
シカゴ・トリビューン紙は「精力的で明快な調子で、しかも純粋なアングロ・サクソンの英語で力強く論じており、この日の演説の中で一番熱狂的な喝采を受けた」と報じた。
ニューヨーク・タイムズ紙も「彼女の論旨は、的確に将来を予見した素晴らしいものである。完璧なまでにイギリスの保守主義的な政策を理解しており、アメリカの自由と友愛の精神に対して惜しみない賛辞を送っている」と絶賛した。
バッカス教授が評した「彼女の中に秘めたる力」が、現れたのだろう。その力をもって、山川捨松は祖国に戻っていった。
(文責:伊勢雅臣)
(次号に続きます)
■リンク■
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1.久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』★★★、中公文庫、H5
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