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JOG(802) 乃木大将の「みあとしたひて」

 明治天皇に殉死した乃木大将は、その後も多くの人々の心の中に生き続けた。


■1.「空前の葬式」

 大正元(1912)年9月18日午後、明治天皇に殉死した乃木大将夫妻の棺を見送るべく、乃木邸から青山斎場までの沿道に数十万人の人々が立錐の余地なく立ち並んだ。明治・大正・昭和最大の言論人・徳富蘇峰は、これを「空前の葬式」と評した。

 しかりといえど記者が空前というは、知名の会葬者の多きがためにあらず、無名の参集者の多かりし事なり。・・・

 彼等の中にはいわゆる見物人もありしならん。されど乃木大将が平生平民の友たり、弱者の友たり、窮者の友たり、失望者の友たり。自ら処(お)る薄くして厚く公に奉じたる丹誠(赤誠の意)は、期せずして挙天下の人心に感応し、遂にかくの如き群衆を見いだしたりき。[1,p282]

 葬列の中には、乃木が院長を務めた学習院生徒がいた。当初は
生徒の葬列参加は予定されていなかったが、生徒たちの猛烈な抗議によって、これが実現した。[a]

 東京巣鴨の廃兵院でも、廃兵たちは会葬を強く希望した。日露戦争で手足をなくすなど不具となった元兵士たちを、乃木は月1、2回は訪れ、各部屋ごとに慰問して回っていた。いつも菓子や果物などの手土産を欠かさなかったが、時折、皇室から御下賜の品をいただくと、乃木は真っ先にここに届けた。

 廃兵院では、歩行のできる者は葬列に加え、不自由な者は式場に先着せしめ、重患者のみ、やむを得ず院内に残した。

 乃木の棺は砲車に乗せられ、そのそばには生前親しかった陸海軍軍人たちがつき従ったが、その葬列にはこれらの学習院生徒や体の不自由な廃兵たちも加わっていたのである。

■2.乃木はかくの如き人であった

 数十万の会葬者の中には、乃木の人柄に惹かれていた民衆も多かっただろう。乃木には多額の俸給があったが、生活を質素にして、その大半を戦死者遺族への弔問や、旧部下貧窮者の生活費、傷病者の医療費に充てていた。

 ある時、人力車に乗ったら、その車夫が同じ長屋に住んでいる少年と母のことを話してくれた。父は旅順で戦死し、母は長患いで寝たきりで、少年は新聞配達などをして母の面倒を見ているという評判の孝行息子だという。

 乃木はその日の夜、すぐにその少年の家を訪ねた。ちょうど借金取りの男が来ており、大声をあげて督促中だった。母はもう少し待ってくれるよう泣き声で懇願し、少年はおろおろしていた。乃木はその場で借金を払ってやった。畳に額をすりつけ、嬉し泣きをしながら礼を言う母子に、こう言った。

 いや礼を言われるに及ばん。あなたの病気をお見舞いし、松樹山に名誉の戦死をなされた本多上等兵の位牌に線香を上げ、また倅さ(せがれ)さんの心労を慰めんために参った。私は乃木希典じゃ。

 そして「仏前に」と20円を母親に渡し、別に5円を「孝行しなさい」と言って少年に渡した。それから乃木は生ける者に言うがごとく、戦死した本多上等兵の功績を賞して仏壇に手を合わせた。親子は唯々涙にくれた。

 また、ある時は私用で長野に行った際に、当地の人々に見つかってしまい、長野師範学校で講演をさせられる事になった。校長は講堂で全員に乃木を紹介し、その勲功をたたえた後、乃木に登壇を促した。

 ところが、いかに勧められても乃木は演壇に登ろうとしない。校長が、ちょっとでもと懇願したので、やむなく乃木はその場に立ったまま「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と一言いったまま頭を垂れた。やがて頬に涙が流れ、ついにハンカチをもって面をぬぐい、嗚咽した。

 長野県出身の多くの兵士が乃木の部下として旅順と奉天で亡くなっている。師範学校に学ぶ生徒のなかには、兄を亡くした弟も多かったであろう。満場の生徒、教師もみな涙した。

 乃木はかくの如き人であった。こうした乃木の人柄に直接、間接にふれた名もなき人々が自然に集まって、かつてない「空前の葬式」になったのも当然であろう。

■3.「やがて乃木の一命を捧げる時があろう」

 乃木は、機会ある毎に戦死者の墓を詣でては、その冥福を祈り、遺族を訪ねて慰めたが、常にこう語っていた。

 畢竟(ひっきょう)あなた方の師弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切っていいわけをせねばならぬのであるが、今は時機でない。やがて乃木の一命を捧げる時があろう。そのときはあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である。[1,p272]

 [b]で述べたように、日露戦争の勝利は、乃木軍の働きなくしては考えられなかったのであるが、乃木はその戦功については何一つ語らず、多くの部下を亡くしたことだけを心苦しく思っていた。

 明治天皇から「おまえは二人の子供を(JOG注: 日露戦争で)失って寂しいだろうから、その代り沢山の子供を授けよう」との温かいお言葉で、学習院長に任命され、後の昭和天皇を含む三人の皇孫殿下の養育を託された。

 乃木は5年の間、この最後のご奉公に励んでいたのだが、天皇の崩御でその役目も一段落したと考えたのであろう。乃木にとっては、まさに待ちに待った「大罪を謝する時」を迎えたのである。

■4.「このことのために必ず死ぬから、その時は許してくれ」

 もう一つ、乃木が心中に秘めていた「大罪」があった。それより35年も前の西南戦争で、部下の過失により薩軍に連隊旗を奪われた事である。連隊旗は直接、明治天皇から下賜されたものであり、それを敵に奪われた事は武人として、これ以上の恥辱はなかった。

 乃木は後に待罪書を提出したが、乃木軍の奮戦なくして官軍の勝利はなかったとして無罪とされ、逆に第一連隊長に昇進させられた。

 しかし、お上のお情けにすがって罪を逃れることはできないと、乃木はある夜、ひそかに自決しようとした。乃木の親友、児玉源太郎はかねてこんな事があろうと、隣室で監視していて、乃木がまさに刃を腹に突き立てようとした瞬間、部屋に飛び込んで、乃木の右手を押さえた。

 物音を聞きつけた西島助義中尉も駆け込んで、二人して乃木をおさえつけ、刀を取り上げた。児玉は、切腹しても軍旗紛失の責任は済まない、と乃木に説き、「過失(あやまち)を償うだけの働きをしてから死んでも遅くはあるまい、それが真の武士道だ」と説いた。

 筋道を通した児玉の言葉は、一言一句、乃木の肺腑(はいふ)を衝(つ)いた。乃木は言った。「今は死なぬがしかし一度は死ぬ。このことのために必ず死ぬから、その時は許してくれ。」

 児玉は「それは良い覚悟じゃ」として、「その時が来るまでは貴様の生命はおれが預かっておく」と答え、この事は西島と3人だけの秘密とした。

 乃木と児玉はともに日露戦争を戦い、勝利をもたらした。そして児玉は日露戦争で生命を燃やし尽くしたように、戦争終結の翌年に亡くなっていた。乃木にとっては、生命を預けていた児玉がなくなり、「このこと(連隊旗紛失)のために必ず死ぬ」という覚悟を果たせる日が来ていたのである。

 この一件は、30数年も三人の間で秘密とされていたが、児玉と乃木が亡くなった後に、西島陸軍中将が、「もはや秘すべきことにあらず」として、事情を打ち明けた次第である。

■5.みあとしたひて我は行くなり

 こうしてかねてから覚悟していた自決をようやく遂げた乃木であったが、明治天皇への殉死という形でそれを行った心境は、次の二首の辞世から窺える。

 神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろが(拝)みまつる
 うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり

「みあと」という言葉が両首に共通して用いられている。乃木にとっての明治天皇は、君臣の別を超えて、その「みあと」を敬慕すべき御存在だった。

 たとえば降将ステッセルとの会見では、明治天皇から「武士の名誉を保たしむべき」との聖旨を受けて、敵将軍が勲章をつけ帯剣することを許した。乃木の降将への仁愛と礼節にあふれた態度は、世界を感銘させた[b]。敵に対する思いやりは、武士道の説くところである。明治天皇は次のような御製を詠まれている。[c]

 国のためあだ(仇)なす仇はくだくともいつくしむべき事な忘れそ
(忘れてはならない)

 この大御心に応ずるかのように、乃木は次の歌を詠んでいる。

 射向(いむ)かひし敵(かたき)もけふは大君のめぐみの露に(うる)ほひにけり

 民への思いも同様である。冒頭に紹介した乃木の廃兵たちへの思いやりは、まさに次の御製の心情と同じである。

 いたでおひてたたれずなりしつはものをやしなふ道におこたるなゆめ
(戦傷を負って立てなくなった兵たちを養う道に怠るな、決して)

 明治天皇は若かりし頃、武士道の体現者と言うべき山岡鉄舟に鍛えられた[d]。武士道精神において、明治天皇と乃木の心は深い所でつながっていた、と言えよう。

 その明治天皇が神去られた今、その「みあと」を慕って「我はゆくなり」と言ったのは、気負いも何もない、「さあ、お供させていただこう」というほどのごく自然な心持ちだったと思われる。

 先立たれた明治天皇も、あの世でお会いしたら、苦笑しながら「仕方のない奴だ」とでも言われてお許し下されよう、と乃木は思っていたのかも知れない。

■6.外国人の感動

 英文の名著『武士道』を著して、欧米人に武士道精神を説いた新渡戸稲造[d]は、晩年の乃木とも親しく接した。新渡戸は乃木の殉死について、こう述べている。[1,p278}


 平生欽仰(きんぎょう、尊敬し敬慕すること)措(お)くなき乃木大将の見事なる最後は、私をしてさらに新たにこの『武士道』精神を味わしめるに充分であった。・・・

 しかるにここに外国人でありながら、日本人なる私よりも余計に深く感動し、大将の殉死を絶対に賛美している人物がいる。それは米国大使館の某陸軍少将であるが、ある夜彼は粛然たる態度で、

「尊敬すべき乃木大将の一生は、その始めより終わりまで日本軍人の亀鑑(きかん)とするに足るものである。否ひとり日本軍人の亀鑑とするのみにとどまらず、自分達外国人が取って以て模範とするに余りある」

と聞いたのであるが、しかもその相手となっていた人は日本人でなくして、純然たる米国の同胞中の一人であったのである。これをもって見るも、今回の大将の死があまねく世界の人々にまでいかに深く感動を与えたかを語るの証拠となるのではないか。

「空前の葬式」と述べた徳富蘇峰も、外国人の会葬者について、こう語っている。

 記者の前に立ちし外国婦人の如きは、その目睫(まぶた)の赤くなるまで泣きたりき。彼女は何故に泣きたるか。人情あに東西に相違あらんや。[1,p283]

■7.「ほとんど自然の進退とするほかはない」

 また「ロンドン・タイムズ」「ニューヨークタイムズ」その他欧米各国の新聞が乃木の殉死を大々的に報じたが、一般の欧米人が殉死という形式を理解しかねる様子を見て、アメリカ人記者スタンレー・ウォシュバンが一気に書き上げたのが、『乃木大将と日本人』であった。

 ウォシュバンは「シカゴ・ニュース」の記者として、第3軍に従軍、乃木の謦咳に接して「ファーザー・ノギ」とまで慕った人物である。殉死という行為を疑問視する欧米人にウォシュバンは言う。


乃木大将を知って、いささか将軍の理想を解し、先帝(明治天皇)に対する崇拝の赤心(まごころ)を解するものよりみれば、何ら怪しむべきことに非(あら)ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。

 日露戦争中に、乃木の古武士らしき人格に触れ、かつ明治天皇への忠節ぶりを目のあたりにしていたウォシュバンには、乃木の天皇のみあとを慕って行く様は「自然の進退」としか見えなかったのである。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、『葉隠』の一節である。良く死ぬためには、まず良く生きなければならない。連隊旗紛失と日露戦争で多大な死傷者を出したという二つの「大罪」に対して常に死を覚悟しながら生きてきた乃木の一生は、この言葉の真の意味を明らかにしているようだ。

 そして殉死してから後の乃木は、ますます多くの人々の心の中に生き続け、武士としての生き方を示し続けたのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(792) 国史百景(4) 昭和天皇をお育てした乃木大将
 昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」
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b.. 

c.

d. JOG(288) 新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋
 武士道と聖書とに立脚して、新渡戸稲造は日米両国の架け橋たらんと志した。
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c. JOG(218) Father Nogi
 アメリカ人青年は"Father Nogi"と父のごとくに慕っていた乃木大将をいかに描いたか?

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  
岡田幹彦『乃木希典―高貴なる明治』★★★★、展転社、H13



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