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JOG(218)Father Nogi

アメリカ人青年記者が敬愛を込めて描いた乃木大将の実像


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■1.Father Nogi"■

 1913(大正2)年2月、ニューヨークで "NOGI"と題する本が出版された。そのわずか5ヶ月前、明治天皇の崩御(ほうぎょ、亡くなること)とともに、自刃した乃木大将を描いた本である。自刃と共に、一気に書き上げ、急いで出版したものである。

 著者はスタンレー・ウォシュバン。日露戦争中、シカゴ・ニュースの記者として乃木大将の第3軍に付き添った人物である。乃木大将の参謀長を務めた一戸(いちのへ)少将は後にこの本の存在を知って、涙を流さんばかりに喜んで、こう語ったという。 

 ウォシュバンという男は当時27,8歳の愉快な青年であった。非常に乃木さんを崇拝したばかりでない。Father Nogi と呼んで、父のごとくに思っていたようだが、果たしてこういうものを書いていてくれたか。

 後に軍神として祀られた乃木大将は、米国青年の眼にどう写ったのだろうか?

■2.毎朝手元に届けられる死傷者の名簿■ 

    明治37年8月19日、乃木希典大将率いる第3軍は、旅順要塞への総攻撃を開始した。バルチック艦隊が到着する前に、港内に逃げ込んだ敵艦を撃滅しなければならない。しかし最新の技術をもって築城した要塞は、第3軍決死の総攻撃にもびくともせず、戦死者累々の有様であった。この時の乃木大将の様子をウォシュバンは次のように描く。

 しかし毎朝手元に届けられる死傷者の名簿を見て、将軍がどれ程心胸の疵(きず)を深めたかは疑うべくもない。一週は一週、一月は一月と、この恐怖の月日が長引いて行く間に、将軍の変化は非常なものであつた。心労痛苦の皺が、縫い目のように顔面に刻まれ、気色悠揚とした時でも、新しい皺が創痕のように深く目立っていた。

 ・・・新任長官として第九師団を編成した時には、下士官の姓名までいちいち覚えてしまったという人である。手ずから撫育して多年統率の任に当っていた、我が児のごとき第九師団は、今や旅順ロ攻撃軍の中心となって、難戦苦闘を極めた点においては、出征軍中恐らくその右に出づるものはあるまい。

 乃木の長男・勝典(かつすけ)は第2軍に属し、5月27日、遼東半島上陸直後の戦いで戦死。次男・保典(やすすけ)も11月30日、第3軍の歩兵少尉として戦死してしまった。

■3.祝賀の陰の涙■

 旅順要塞が陥落したのは、ようやく翌38年1月1日であった。日本軍の犠牲は死者1万5千、負傷者4万4千人に上った。  

 将軍はたちまち全世界の視聴を一身に集める人となった。文明国民として、将軍に賛美を呈せぬものはなく、新聞という新聞は、ことごとく将軍の肖像を掲げ、でたらめの伝記までも書き立てた。ドイツ皇帝は祝電を送り、勲章を贈った。

 しかし、乃木大将はこれにどう応えたか。一副官はウォシュバンにこう語った。

 旅順口が陥落して、私たち幕僚が皆祝賀に耽(ふけ)っていると、いつの間にか閣下の姿が見えない。もう退席してしまわれたのだ。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。

 降将ステッセルとの水師営(すいしえい)の会見は有名である。各国特派員が写真撮影を求めたが、敵将に恥をかかせることは日本の武士道が許さないとして、「会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」といい、ステッセル以下と肩を並べて写真に収まった。

■4.「午後は少し忙しい。」■

 5月、第3軍は満洲に進出し、司令部は人口5万の町・法庫門に居を構えた。従軍記者はウォシュバンを含め、3名に減っていた。石と泥土で建てられた、何の飾りもない小さな家を乃木大将は住居としており、門に歩哨が立っているのと、将軍達がときおり内庭を行き来しているのを除けば、他の同じような住宅と区別はつかなかった。

 ある日の午後、ウォシュバンはコリヤズ週刊新聞記者のバリーとともに乃木大将の住居を訪れた。いつものように閑談を伺ったり、一服の茶をふるまってもらうためであった。将軍は大長靴を脱ぎ、大きな腕椅子に正座して、茶をすすり煙草を喫して、法庫門の生活などを4,50分ほど語り合った。ウォシュバンには、この時ほど、将軍がくつろいで見えた時はなかった。

 やがて、将軍はこう言った。「今日はこれで失礼します。午後は少し忙しい。ミスチェンコの兵が、我が軍の連絡を絶つために、襲撃しようとしていますから。」 

 ウォシュバンが後で知ったことだが、この時、わずか1千人しか防御のいない第3軍司令部にミスチェンコ少将率いるコサック騎兵約1万が接近していた。乃木大将が「少し忙しい」と言ったのは、大至急、味方の兵力を集めることであった。夕刻には万全の準備が整った。 

 私たち二人が乃木大将の許に悠々と茶を喫していた時は、あに図らん、ちょうどこの戦闘準備の最中であったのだ。

■5.忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。■

 東郷提督率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅した翌日、夕刻7時に司令部において祝杯を上げることとなり、ウォシュバンも招待された。乃木大将が「万歳」を叫ぶと、満座これに応じて、たちまち野砲斉発のような轟きとなって、「万歳」の声が四壁を揺るがした。 

 乃木大将は微笑を浮べて冷ややかに見渡す。その微笑もやがては消えて、なかば厳粛になかば悲痛の面持となる。将軍は右手を挙げる。満堂再び沈静する。一同体を傾けて将軍の一語をも聴き漏らさじとする。将軍の言葉は、翻訳によると大要左のごとくである。 

 我が聯合艦隊のため、我が勇敢な海軍軍人と、東郷提督のために、祝盃を挙げるのはこの上ないことだ。天皇陛下の御稜威(みいつ)によって、我が海軍は大勝を得た。しかし忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るのを忘れないようにしたい。彼らは強いて不義の戦をさせられて死に就いた、りっばな敵であることを認めてやらねばならない。それから更に我が軍の戦死者に敬意を表し、敵軍の戦死者に同情を表して、盃を重ねることとしよう。 

 乃木大将の本色実にここに在る。・・・

■6.乃木大将のアキレス腱■

ウォシュバンらが、乃木大将の戦功を語るにシーザーやナポレオンなど歴史上の偉人に比較しようとすると、将軍はいつも迷惑そうな面持ちで、「アメリカの諸君は大変お上手だから」と言って、直ちに話題を転じてしまうのが常であった。

 しかし、遂に乃木大将のアキレス腱を見つけた。それは詩歌であった。バリーは、通訳が英語に訳した将軍の詩歌の詩情と典雅な表現に動かされて、適当な英語の韻律を与えようと、苦心を続けた。

 他の手段によってその名誉心に訴えようとしても、将軍は毫(すこ)しも動ずることがないが、作詩の讃評を聞く時のみは、小児のように夢中になっていた。バリー君が翻訳して、しかも佳作となったものを齎(もたら)して、原詩の情調に適する韻律選択の苦心を語る時、恍惚(こうこつ)として両眼を閉じて傾聴する将軍の面影が、髣髴(ほうふつ)として今なお眼前に浮んでくる。バリー君は将軍の著想を表すのに、シェークスピアの韻律が適するか、又はスウィンバンのが適するか、それを決めるのが困難だと言って説明した。・・・そして彼が将軍の作品を論評する時、将軍は始終ポンチ(漫画)人形のように嬉しそうに見えた。

■7.暁天の星■

 9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することとなった。出発の前夜、送別の小宴が開かれた。乃木大将は体調が悪く、欠席とのことであった。 

 宴が終りに近づいた時、にわかに入ロの戸が開いた。一同起立して不動の姿勢をとったと思うと、戸ロの方に乃木大将が立っている。

 覆いがたい憂愁に打ち曇ったその時の顔色は、忘れようとしても忘れることはできない。・・・将軍は微笑だにも漏らさず、しずしずと食卓の上座まで来て、私たちと握手を交換し、切れるような日本語で従卒を呼んでシャンペンの盃を取った。再ぴ私たちに向って、淋しいながらも温和な色を浮べて、左のような意味を述べた。

「・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、一言を呈せずにはいられない。しかし訣別の辞を呈しようとするのではない。願わくはお互いの友情を、永久に黎明(れいめい、夜明け)の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。暁天(ぎょうてん、夜明けの空)の星は次第に眼には見えなくなる。しかし消えてなくなることはない。我々は諸君に会わず、諸君も我々に逢うことがないにしても、各々何処かに健在して、互いに思いを馳せることであろう」 

 言い終って将軍は盃を揚げる。一同もまた黙々として盃を揚げた。やがて将軍は幕僚をふり返って、少しく意気を起して「万歳」を叫んだ。人々例によってこれに応じた。この懐かしい叫びは三度鳴り渡った。将軍は再び握手を交換して、またしずしずと入口の方へ去った。振り返って一座を見渡し、微笑を浮べて型のごとき挙手を行い、急に転じて出て行ってしまった。

 これが我々の親愛なる老将軍乃木の見納めであった。

■8.別れ■ 

翌朝、ウォシュバンらは、一戸少将以下、6名の幕僚に見送られて、法庫門を出発した。行くこと一マイル、郊外に出ると、一戸少将は馬を停め、こう言った。

「日本人は、友人と袂(たもと)を分かつことを好まない。私も今告別の詞(ことば)などは申さない。ただ私たちは此処(ここ)に馬を駐めているから、諸君は途の曲るところまで行ったら、振り返ってこちらを見て下さい。私が手をふったら諸君も手をふって下さい。それをお互いの別れとしましょう」

 私たちはそのまま馬を進めたが、胸迫って涙を抑えることができなかつた。永い間生活を共にしてきた軍人たち、今は友愛の情切なるものもできているのである。法庫門からの奉天街道が、渓(たに)の細路に通ずる地点に達するまで一マイルは十分あって、そこから細路が東へ東ヘと迂回して行く。その地点に達した時、かねての注意に随って振り返って見た。遥か彼方に騎馬の群が見えていた。私たちは手をふった。肥えた黒馬に跨(またが)った姿に白くひらめくものが見える。それは一戸老の手巾(ハンカチ)を振っているのである。

 これがいよいよ日本帝国の第三軍との別れとなったのだ。

■9.過去数百年伝来した理想の実現のために生きた人■ 

 明治天皇崩御の後を追って、乃木大将自刃の報がアメリカに達した時、この事件がアメリカの国民の間で実にわけの解らぬ事件とされているのを見て、ウォシュバンは憤り、一気呵成にこの本を書き上げた。

 吾人(われら)遠く欧米に在るものよりみれば、這般(しゃはん、このたび)の行為は聞いてだに戦慄すべきことであろう。しかし乃木大将を知って、いささか将軍の理想を解し、先帝(明治天皇)に対する崇拝の赤心(まごころ)を解するものよりみれば、何ら怪しむべきことに非(あら)ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。・・・ 

 乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化(ごんげ、象徴)であり、最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、日本帝国に捧げることであった。将軍既に自己の事業の終われるを感じ、疾(はや)くにも平安静寂の境に入るべきことであったとして、その機会を熱望していたのである。・・・

 見地かくのごとしとすれば、必ずまず将軍の絶対無二の立脚地を認めなければならぬ。そは、旅順口の戦勝者としてに非ず、奉天戦の英雄としてでもない。ただ本務遂行のために生き、過去数百年伝来した理想の実現のために生きた、単なる人としてである。

 乃木大将はかくのごとき人であった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(7)国際派日本人に問われるIdentity

b. JOG(160) 国柄探訪:国際社会で自分自身を語れますか? ~(2) 父祖からの贈り物
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1.S.ウォシュバン、「乃木大将と日本人」★★★、講談社学術文庫、S55

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