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「タコの介の浮きっぱなし6』釣りを知らない人が釣り文学を語ると。

『二つの心臓の大きな川』

ヘミングウェイの名作短編のなかに『二つの心臓の大きな川』という奇妙なタイトルの小説がある。切り詰められた文体。主人公ニックの感情を極力削ぎ落とす表現。文章の持つ大きな可能性と影響力。その未踏の境地を示したとされる作品だ。その後のアメリカ文学を始め、多くの表現者に影響を与えた。

そんな初期の短編集が『われらの時代』。ここにはヘミングウェイ文体の誕生と成熟過程を示す『雨のなかの猫』『季節はずれ』も含まれている。著者20代の作品群だ。

さて、写真の本。タイトルだけに惹かれて買った。著者の武藤脩二は知らなかったが、中央大学名誉教授で、アメリカ文学の専門家。『われらの時代』をどう読み解くのか興味がつきない。

『二つの心臓の大きな川』は次のように始まる。
〈汽車はまた線路をのぼってゆき、木々の焼き払われた山裾をまわって見えなくなった。ニックはテント用のキャンヴァスと毛布の束の上に腰を下ろした。それはついさっき、汽車の荷物係が荷物車のドアから投げ下ろしてくれたものだった。町はなく、線路と焼けた野原だけが目の前にあった。〉

そこにニックの感情はない。淡々と描写だけが続く。ただ、町も山も焼き払われているというところに読者は最初の引っ掛かりを覚える。どうも、休暇を楽しみにしてきたソロキャンプではなさそうだ。どうしても来なければならなかったキャンプ。

こうして物語はニックの山歩き、川辺の描写をへて絶好の場所にテントを張るまでが第一部。第二部はつぎのようにして始まる。タコの介はこの文章は絶品だと思う。じつは何回も筆写している場面。

〈朝になって日が昇ると、テントの中は暑くなってきた。ニックはテントの入口に張った蚊帳の下から這い出して、朝の光景を眺めた。這いだすとき両手でついた草は、露で濡れていた。彼は両手にズボンと靴を持っていた。太陽は丘のすぐ上に顔を出している。目の前は、草地と、川と、湿地があった。対岸の緑色の湿地には、樺の木立ちが見えた。
 早朝の川はあくまでも澄み、淀みなくすみやかに流れていた。二百ヤードほど下流に丸太が三本、川をまたいで横たわっている。川はその手前で、なめらかな深い淵になっていた。見ていると、一匹のミンクが丸太伝いに川をわたって湿地に消えた。ニックは興奮した。〉

息づまる鱒釣りのシーン

ストーリーはいよいよ鱒釣りのシーンになる。ニックはまず、露に濡れて動けないエサのバッタを小瓶に集める。バッタに釣り針を刺す。バッタは前足で針をつかんでタバコ汁のような茶色い液体を吐き出した。そしてフライタックルでバッタを川の流れに投げ入れた。描写はきわめて正確な手順をたどる。

こうして物語はクライマックスへと走り始めた。躍動感と生命力に溢れた鱒。ナイフを出してその鱒を殺すときの臨場感。

〈ニックはナイフをとりだし、刃をひらいて、丸太に突き立てた。それから袋を引きあげると、中に手を突っ込んで、鱒を一匹とりだした。しきりにくねる尾の近くをしっかりつかんで、丸太に頭を叩きつけた。鱒はひくひく震えて、硬直した。日陰に入っている丸太の上にそれを横たえ、残るもう一匹の鱒の首も同じようにして叩き折った。二匹の鱒は、並べて丸太に横たえた。いずれも素晴らしい鱒だった。〉

そして結び。
〈あの湿地で釣りをする日は、この先いくらでも訪れるだろう。〉
ここに戻れば勇気と希望がよみがえる。あの湿地はニックにとってそんな場所になった。

ようやく本に戻る。筆者はニックと鱒釣りのことにはいっさい触れない。しつこく語っているのは沼地のこと。沼地は陰気で不気味で踏み込みたくない彼岸のようなもの。その沼地は米文学の中でこうもああも語られている。と延々と続く。もう、いい加減鱒釣りに戻れよ。釣りにまったく興味のない人が、ヘミングウェイを語る不幸を感じた。

#ヘミングウェイ #釣り #フライフィッシング





タコの介のnoteに来てくれて、ありがとうございます。小学3年生。はじめて釣り竿を両手でにぎりしめてから、釣りが趣味となり、いつの間にか仕事にも。書くことの多くが釣りになりました。そんな釣りにまつわるnoteです。どうぞよしなに。