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「強さ」と「らしさ」を考えてみる

ビジネスとスポーツ、2つの世界に身を置いてみてよく感じることがある。
「強さ」が脚光を浴び、「らしさ」は置き去りにされがち、ということ。
今回は、スポーツの世界で感じたことをちょっと書いてみたいと思う。

注目される「強さ」 見落とされがちな「らしさ」

ここで私がいう「強さ」と「らしさ」は以下のことである。
<強さ>
他者と競争して勝つこと、実績を残すこと、他者を凌駕すること
(ex. 目の前の試合に勝つこと、〇〇トーナメントで優勝すること、△△学生リーグで3部から2部に昇格すること、フェイスオフで100%の勝率を叩き出すこと、など)
<らしさ>
自身独自/特有の考え方を構築し言語化のうえ体現すること
(ex. 勝っても負けても常にポジティブに声がけして味方を鼓舞すること、所属するチームをカッコ良いと感じてもらうために勉強も手を抜かないこと、フェイスオフで50%を割る勝率でも相手に簡単にポゼッションさせないこと、など)

「強さ」は明暗がクッキリ分かれるし、数字として前面に出てくるのでわかりやすい。
50年ぶりの全国大会出場、16回連続甲子園出場、など、わかりやすいし燦然と輝く。
反面、「らしさ」は地味で、キラキラしていない。
どんな時もポジティブに声をかけて鼓舞し合うチームがあったとしても、そのチームの雰囲気の持つインパクトは、「全国大会優勝」ほどわかりやすく頭に入ってこないし、きちんと理解するにはコンテキストの把握が必要になる。
そのため、「強さ」の方が「らしさ」よりも競技者の目を惹きやすい。
そして競技者は「強さ」の追求にのめり込んでいく。
「〇〇で優勝する!」「▲▲に勝つ!」と。
別に悪くない、悪くないが、「優勝する」こと「勝つ」ことが目的になると、中身が空っぽなサイボーグを見ているような気になってしまう。

なぜ「らしさ」が大事なのか

自分なりに「強さ」と「らしさ」を比較すると以下のようになる。
<強さは相対値>
・他者との相対比較で優劣が決まる(相手より1点でも高ければ強い)
・比較する他者の立ち位置に依存する、自らの価値に依拠できない
・競技者自身の目線で考える思考展開になりやすい
<らしさは絶対値>
・他者と相対比較はするが優劣は決まらない(相手は相手、自分は自分)
・他者に対する強み/弱みを理解するものであり、自らの価値に依拠できる
・競技者以外の目線で考える思考展開を求められる
だと言える。
どちらも相対比較はするが、自らの価値をどう捉えるか、という点が大きく異なる。
不思議ではないだろうか?
「勝負に勝ちたい」と思えば思うほど競技者は「強さ」を追求することになり、自分の価値を軸に据えて勝負できない世界に足を踏み出していく。
反面、一見勝敗に直結しない「らしさ」を追求するとで、自分の価値が深く地面に根差し、自分の土俵で勝負できる世界が拡がっていく。
強くなりたければ、直接的に「強さ」を求めることが却って遠回りになり、「らしさ」を磨くことで「強さ」が足元から盤石になっていく、実は勝負の世界はそんな風になっているのではないだろうか。

自身の経験から言えること

<大学時代の経験>
私は大学時代ラクロス部に所属していた。
入部当時は、どことなく「ラクロスの実力者がエライ、そうでない者は劣後する」という価値観があったと思う。
(誰かが悪意をもってこの価値観を形成したのではなく、当時の時代背景や各部員が高校までやってきた部活の雰囲気を持ち込んだ感じ)
私が3年生になるシーズンで部訓ができた。
「巧より強たれ」というラクロス界では有名な理念の誕生。
このシーズンから母校ラクロス部が変わったと私は思っている。
Bチーム(2軍)であれ、新入生であれ、文字通り「巧くあるよりも強くある」ことが求められるようになった。
当時、私はBチームにいたが、Bチームだからと言ってこの理念から外れるようなことはできなかった、というか外したくなかったのを覚えている。
部訓が定められたことで「勝つ」こと以外の価値観が言語化され、日常レベルの行動指針が明確になり、判断基準も明確になった。
今のプレーは「巧より強たれ」なのか?今の言動は「巧より強たれ」なのか?ライバルチームや卒業生、保護者、観客から見て自分たちは「巧より強たれ」に見えているのか?
部訓という指針があったことでAチーム(1軍)のメンバーも、Bチームのメンバーに対してその姿勢や言動を基に信頼や尊敬を寄せるようになっていった。
それまでは「勝てば良い」という「強さ追求型」だった母校が「巧より強たれ」という「らしさ」を2本目の軸として得たことで、結果的に「強さ」も「らしさ」もレベルアップしていったと思う。
ちなみに、母校ラクロス部は部訓が定められる1年前から今まで関東ベスト4以上の実績を逃したことはない。

<米国での経験>
私が社会人留学していたメリーランド大学は、男女ともにラクロスの超強豪校だ。
女子は過去10年で優勝4回準優勝3回、男子は過去10年で優勝1回準優勝4回、を経験。
半端ないレベルでの「強さ」の追求の賜物だろう、と予想していた。
が、実際に試合や練習を見てみると、むしろ「らしさ」に細心の注意が払われていることがわかった。
例えば、男子は「Be The Best」をチーム理念として掲げている。
アスリートとして、チームの一員として、クラスの一員として、家族の一員として、将来的には卒業生として、夫として父として、文字通りベストになれ、というシンプルな理念。
これを強烈なくらい見事に体現する選手・コーチ・スタッフ。
練習ではドン引きするくらいガチンコでボディコンタクト、クラスルームでは最前列に座ってガンガン発言してディスカッションを盛り立てる、食堂ではクラスメイトと政治トピックで主将がディスカッション、校舎では廊下の椅子に腰かけてキャッシュフローモデルと睨めっこするチームのエース、そして試合当日は勝敗に関わらずスタンドで声援を送る子どもたちと笑顔で談笑するチームのみんな、それが当たり前の光景だった。
毎年NCAAチャンピオンを目指して全身全霊をこめて練習しながらも、Be The Bestという「らしさ」を片時も忘れず実践する姿には強く感銘を受けたし、今振り返ってもたくさんのことを考えさせられる。
彼らにとって、ラクロスは「大学生活の全て、人生の全て」ではなく「大学生活の一部、人生の一部」なんだ、だから「らしさ」を大事にするんだな、と。

結局「強さ」と「らしさ」ってどう考えるの?

ダラダラと書いてしまったが、結局「強さ」と「らしさ」ってこんな感じなのかなと思っている。
例えば、「全国大会優勝する」という「強さ」しか追求していないチームがあったとする。
「強さ」しか追求していない状態で仮に優勝できたとする、その場合、優勝したチームには何が残るのだろうか?
喉から手が出るほど欲しかったトロフィーを手に入れた後に見える景色って、どれくらい素晴らしいのだろうか?
もしかしたら、期待していたほど素晴らしい景色ではないのかもしれない。
優勝できればまだ良い、もし、優勝ができなかった場合、そのチームには何が残るのだろうか?
試行錯誤してきたその軌跡は、疲労と後悔で埋め尽くされて何の希望も無いと形容され、ただ忘れ去られるのだろうか?
私たちがチームでスポーツをする意味って、勝つか負けるか、優勝するかしないか、それだけに左右されるものなのだろうか?
この問いに答えを出すのが「らしさ」だと思っている。
「巧より強たれ」「Be The Best」、共にスポーツだけでなく人生の指針としても捉えることのできる理念である。
もちろん勝つために全力は尽くすのだが、仮に勝てなかったとしても、「巧さより強さを追求したか」「常にBestであろうとしたか」そのためにどんな仮説を立て、アクションとして何を起こし、失ったものは何か、得たものは何か、何がうまくいったのか、トータルでどれくらい前進したか、そのループの中で自分とチームがどう成長したのか、その軌跡に胸を張ることができるかどうか。
「らしさ」を持ち、追求することでそんなことがわかるようになるのではないだろうか。
スポーツを通じて人生を学んだ、人生経験を積んだ、という大人は多いが、それは実は「強さ」の追求ではなく「らしさ」の追求の中でたくさんのことを学んだのではないか?「らしさ」をメタ認知することなく過ごす中で「強さ」に全てが詰まっていると認識してしまっているのではないか、と私は見ている。
「強さ」と「らしさ」は相互補完関係。
どちらか一方だけを有していてもうまくいかない。
陽が当たりがちな「強さ」だけでなく「らしさ」に気付き、掘り下げ、言語化し、それをさらけ出していくことが、チームでスポーツをすることの、スポーツに限らずチームとして何かを成し遂げていく時の醍醐味なんだろうな、と私は思う。

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