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凡才の矜持

天才の存在

突然だが、私は天才ではない。
決して自慢ではなくfactとして、スポーツでは全国大会出場や個人賞受賞の経験があり、縁あって米国でMBAにも行かせてもらった。
けれど、それは私が天才だったからでも超人だったからでもなく、凡才の努力がたまたま結実しただけ。
インプットは比較的得意だが、アウトプット(言語化)は苦手であり、どちらも天才と呼ばれるような人たちの足下にも及ばない。
唯一自慢できる才覚があるとすれば、国籍や文化を問わず信頼関係を構築するのが上手なことくらいか。(MBAの授業でも「信頼関係作るのが上手な奴」みたいな感じでメンションされて死ぬほど嬉しかった記憶はある)
天才とは、フィールドやコートの上で信じられないタイミングや体制からいとも簡単に凄いプレーをやってのける人だったり、物事の課題を一瞬で見抜いてそれをいとも簡単にロジカルに説明してのけれる人だったり、そんな人のことを言うんだと思う。
もし仮に天才をそう定義づけるのだとすれば、私は全くもってそのカテゴリーには該当しない。
むしろ、何回も何回も失敗して、失敗のうえに自分を成立たせてきた人間だ。
これまでの人生で何人もの天才たちに出会い、彼ら/彼女らと共に過ごす中で、「自分にできること」「自分の存在価値」を考えてきた。

自分の土俵を自覚する

天才は天才だ。
発想力、頭の回転、体のキレ、状況判断、突破力、など天才は天才の土俵で物事を進める。
その土俵で、彼らと対等に渡り合うことは難しい。
渡り合う努力はしても良いが、渡り合えないことをいちいち気にしていても仕方ない。
後で取り返すことは十分に可能だ。
天才は、同じ土俵に乗ってこれないことにイラ立ちこそすれ、共に過ごすチームの仲間であれば信頼を失うようなことは、そう簡単には起こらない。
むしろ最も大事なのは、自分の土俵を持ち、そこに何があるのか自覚すること。
論理や才能では簡単に届かない、自分の領域を持つことで、自分にしか出せないオリジナリティを持てる。
天才と張合うのではなく、共創するにはこの手段が最も有効だと感じる。
お互いを活かすにはそういう構図に持って行くのが一番良いと思う。

凡才の矜持

おそらく努力は人一倍しないといけない、天才には一時的に置いてけぼりを喰らうかもしれない、冷や汗をかく回数も多いかもしれない。
けれど、そんなことは計算済。
天才が思い描いた世界を形にしていくのは、天才ではなく無数の凡才たち、そう思うことが凡才の矜持になると思った1日だった。

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