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昭和二十年の祖父と赤坂区青山南町さんぽ録

夏が近づくと、ふと小学生の時分に毎年のように歩いた九段の八月の青空を思いだすことがある。

ちょうど一年ほど前のことになるけれど、個人的な調べもののために祖父の軍歴を調べた。東京近郊の外れにある二世帯住宅(前回の記事で触れた実家)で三歳から大学を出るまでの約二十年間をともに過ごした母方の祖父で、僕の家庭は父が婿入りしたので苗字も同じだった。

彼は旧海軍の神風特攻隊の生き残りで(三年前の記事にも書いたけれど、もうまもなくの出撃を待ちながら敗戦の日を迎えた)、八月十五日になると年に一度の同期の集まりを行っていた。そしてそこへ幼少期の僕はよく連れていかれた。そのときのエピソードはいくつも記憶しているけれど、それとは別になぜか強く脳裏に焼きついているのが、冒頭に記した九段の昼下がりの空の青さで、それは祖父とともにみたものだった。

そんな彼も数年前に亡くなったのだけれど、対象が故人であっても遺族であれば軍歴に関する資料を照会できることを知り、開示申請を行ってみた。
(参考「旧陸海軍から引き継がれた資料の写し等の請求について|厚生労働省」。リンク先にもあるように、旧海軍の資料については厚生労働省が引き継いでいる。旧陸軍の場合は基本的に都道府県が窓口となるが、外地にあった部隊のみ厚生労働省が所管のようだ)

回答が届くまでは三ヶ月ほどかかったけれど、無事に奉職履歴が残っており写しが送付された。

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そこに記録されていた内容は既知のものがほとんどだったけれど(そもそも昭和二十年六月の任官・部隊配属以降は、もっとも確認したかった場所の移動に関する情報が何ひとつ残されていない)、たとえば日付などからあたらしく気づいたこともあった。三年前の記事で僕はポツダム宣言の受託があと少しでも遅ければ祖父の出撃により自分は存在しなかっただろうと書いたけれど、同じような事象は土浦での予備学生時代にも起きていた。練習航空隊特修学生(特攻隊)として別の基地へ召集されるのがあと十日ほど遅ければ、隊施設への爆撃(阿見大空襲)でやはり僕は生まれていなかった可能性が高い。

ほかにもわかったことはいくつかあったけれど、副次的には開示請求の必要書類として祖父の死亡年月日を証明するための戸籍謄本(正確にはすでに平成期にデータ化されて戸籍事項証明書となっていたけれど)を取り寄せたことが大きかった。自らにまつわる場所のルーツのひとつに現在の南青山あたりがあったということを初めて明確に知ったからだ。

実はちょうど請求を行うすこし前にもそのことをおぼろげに示唆される機会があった。チェルノブイリの旅で出会った先輩の友人と荻窪で一献傾けた際に、伯従父(母のいとこ)が経営する居酒屋を訪れた。そこで伯従父から「以前は青山に本家があったらしい」という言葉を聞いていたのだ。そういえば祖父はたびたび「昔の渋谷はなにもないただの裏の窪地」という発言をしていた。

実際に戸籍を確認してみると、たしかにそれは事実であったことを指し示していた。そして先の奉職履歴の記載と照らしあわせた結果、当時は港区南青山でなく赤坂区青山南町という地名であったことも知った。それで僕はそのあたりへ散策しにいくことにした(時期としては昨秋となる)。

といってもほんとうに何度もこれまでの人生で訪れたことのある場所のすぐ近辺だ。なにしろ南青山だからね。この土地を手放していなければ今ごろは……などと邪な思いを抱きながら歩いてみる。

位置的には表参道の交差点と青山霊園の中間あたり、想像と違って一般家屋や年季の入った低層ビルもかなり多く、そのなかに時折イメージ通りの瀟洒でまあたらしい建物が入り混じっているという雰囲気だった。おそらく何かのきっかけで地権が売り出されるたびにそういったものが出現してきたのだろう。

本籍なので番地までしかわからなかったのだけれど(あとで附票もとればよかったのだと気づいた)、この一角だろうという目星はついた。そこは小型車一台がやっと通れるくらいの細い道に面していて、豆腐店もあった。南青山にお豆腐屋さん!

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店頭に年配の女性(おそらく生きていれば祖父と同年代か少し下くらいの)がいらっしゃったので話を伺ったところ、祖父(と僕)の姓にはなんとなく聞き覚えがあるという。ただ元々は近隣で創業し、のちにここへ移転したとのことだったので、直接の面識があったかは定かでないとのことだった。

「まあこのへんは山の手の空襲でみんな焼け野原になっちゃったからねぇ」ここの土地を手放していなければ、などとひととき考えてしまった自らの浅はかさを僕は恥じた。お土産に名物というおぼろ豆腐を買ったのだけれど、とてもとてもおいしかった。

(この文章を書きながらGoogleマップで検索してみると、なんとお店は閉業となってしまっていた。電話もつながらずまだ正しい情報かの確認はできていないものの、今般の事象の影響によるものか、あるいは後継者などの問題があったのかもしれない。本当に奇遇のタイミングで訪ねられたのだといま強く感じている)

そのあとは、すぐそばにある船光稲荷神社をお参りするなど周辺を歩きまわり、表通りのお店でテイクアウトしたカレーパンを青山霊園の脇の公園で頬張ってから帰った。
(そのときに見た光景の一部を反映させて、中間小説アンソロジー『爆弾低気圧』第三号に「さくら天文台カフェの裏稼業」という未来ものの短編を書いた。販売予定だった文学フリマが中止となってしまい、なんとかウェブ通販などでがんばっているのでよろしくお願いします)

記録というのはつくづくふしぎなものだと思う。

多くの人にとってはまったく意味のないただの文字の羅列でしかないけれど、それがなにかしらの情報と関連づけられると(たとえば祖父から聞いた思い出話のうちで、僕の記憶にのこっているものと重ね合わさると)、途端に少しの価値を持ちだす。それが公のものとして表すべきほどのものかはわからないけれど、よりよい形で皆に差し出すことができれば、あるいはいまと未来の誰かの糧のひとつくらいにはなるのかもしれない。ここには書けない(書くべきでない)他の情報もたくさん得ることができたので、それらすべてをなんとか異化していければと思う。

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こののちに、親族からいくつか関連の話を聞くことができた。

そのうちのひとつが、大正のころは青山だけでなく、旧淀橋区の角筈にも祖父の一家は土地を持っていたらしいという事実だった。それをとある小売店舗に売り渡したらしい。そこはいまでは大変に有名な老舗ビルがある場所として知られている。それを手放していなければ今ごろは……、とやはり僕は邪な思いを抱かずにはいられなかった。


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