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140字小説でたどる戦前の海底ケーブル(新潟、長崎、小笠原、鎌倉)

運営メンバーの一員として携わっている「hoshiboshi」で、いま140字小説コンテストを開催している。月ごとのテーマを設けて募集しており、初回となる先月は「海」だった。そういえば過去に自分が書いたなかで海という文字を入れたことはあっただろうか、と確かめてみるとひとつだけ三年前の作品にあった。

これは新潟・佐渡島の北端にある二ツ亀という陸繋島のあたりの海辺をイメージしたもの。佐渡は父の故郷で、幼少期のころは帰省で毎夏おとずれた。その後に個人的なもろもろですっかり縁遠くなってしまい、もう二度と訪れることはないかもしれないと思っていた場所だったのだけれど、たまたまの縁で十年ぶりの再訪をすることとなり、そのタイミングで執筆したのだった。

新潟からナホトカへ

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実際に見えるわけではないけれど、佐渡の海の向こうにはロシアの沿海地方がある。ウラジオストクなどと並んでその代表都市のひとつであるナホトカは、シベリア抑留からの帰還港としても知られている場所だ。この140字小説はそれをイメージして記したものだけれど、文章には現れていないところでもうひとつ別に想起しているものがあった。それが海底ケーブルだ。新潟の直江津とナホトカの間には、かつてJASCと呼ばれる同軸ケーブルが結ばれており、1995年に運用停止となった。その後の2008年に光ケーブルのRJCNが敷設され、現在ふたたび二国間は海底でつながれている。

2017年に佐渡を訪れた僕は、二ツ亀の沖の地平線下に沈む海底ケーブルのことを考えながら、その穏やかな波を見つめていた。

なぜそんなに海底ケーブルへと思いを馳せるのか、という理由はごく個人的なことなので割愛するけれど、僕が書いた140字小説にはいくつか海底ケーブル(特に戦前の)との所縁がある地を題材としたものがある。今回はそれらについて、簡単にではあるけれど知る範囲の過去をたどっていきたい。

ウラジオストクから長崎、そして上海へ

上述した直江津とナホトカの旧海底ケーブル(JASC)が開通したのは1969年のことだけれど、さらにそれ以前からナホトカと日本とは海底ケーブルで結ばれていた。日本の陸揚げ先は長崎で、1871年(明治4年)に国内ではじめて敷設されたふたつの海底ケーブルのうちのひとつだった。

もうひとつはやはり同じ長崎から、当時の清の上海へつながれていた。

このふたつの海底ケーブルはどちらも第二次世界大戦中に運用停止されてしまい(長崎〜ウラジオストク間は日露戦争時も)、長崎〜上海間についてはその後も再開されることはなかった。一方で長崎〜ウラジオストク間は戦後に再開され、直江津〜ナホトカ間の新設により廃止されるまでの百年近くをこの経路が使われたことになる。

長崎の市街地を題材にしたこの140字小説で使っている写真は2016年の3月に訪れた際のもの。このときの旅の主目的は少しく縁のある小笠原諸島の父島〜母島間を運航する「ははじま丸」3代目の建造進水式への参加だった。たまたまこの年は東京〜父島を結ぶ「おがさわら丸」も3代目の新造が重なっていて、1月には山口・下関の三菱重工造船所で進水式が行われている(そちらも観覧をした)。

この平仮名表記の「おがさわら丸」、小笠原諸島の本土復帰から半世紀がたつ現在では貨客船の名称としてすっかり定着しているけれど、戦前にも漢字表記の「小笠原丸」という船が存在していた。こちらは貨客船ではなく逓信省の海底電纜敷設船、すなわち海底ケーブルを敷設するための専用船であった。1906年に現・三菱重工の長崎造船所(当時は三菱合資会社三菱造船所)で建造され、敗戦直後の1945年8月22日に疎開船として航行中のところをソ連軍潜水艦からの雷撃により沈没した。

この「小笠原丸」という名称の由来は、日本本土から小笠原を経由してサンフランシスコを結ぶ日米間の太平洋横断国際海底ケーブル敷設を目的に建造された船であることによる。

小笠原からグアム、ミッドウェー、ハワイ、サンフランシスコ、マニラ

1906年に開通した太平洋横断国際海底ケーブルは日本側の分界点を小笠原の父島とし、グアムと接続されていた。グアムからはすでに開通していた太平洋横断電信ケーブルとつながり、東へはミッドウェー、ハワイ(ホノルル)を経由してサンフランシスコまでが、そして西へはフィリピンのマニラまでが接続された。

この太平洋横断国際海底ケーブルは1941年12月の日米開戦直前に切断され、その後は復旧されることなく放置された。父島の宮之浜には現在でもケーブルの遺物が残されており、それが記事のヘッダー画像にも使用したこの写真。草や石に埋もれてわかりづらいけれど、白の細いケーブルの奥に見える腐った幹のようなものがそれなのだ(2016年6月撮影)。そして海底にもケーブルの残骸は未だあるよう(参考:http://ogatours.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-bc60.html)。

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この太平洋横断国際海底ケーブル、父島から日本本土への陸揚地は当初は川崎、そしてすぐに東京の深川越中島へ変更された後、1931年(昭和6年)には鎌倉へと再び変更されたという(水位差による通信線の切断事故が相次いだため)。4年前の小笠原訪島時、僕はまさしくその鎌倉に住んでいたので、旅が終わるとすぐに情報を調べた。

鎌倉に

鎌倉のメインストリートである若宮大路、このもっとも海側にある一の鳥居のほど近くにNTT東日本の鎌倉ビルがある(たしか現在ではパタゴニアのリペア部門などもテナントとして入居していたはずだ)。この建物の前には「日米海底通信の史跡」の石碑があり、上述の沿革が記されている。ただし当時に中継所があったのはこの場所ではない。

一の鳥居のさらに海側から小道をすこし東へ入ったところに十数年ほど前まで「ゆかり荘」というNTTの保養所があった。そこがかつて鎌倉電信中継所だった跡地である(現在は駐車場を経てドラッグストアになっている)。

鎌倉からは天候がよい日には沖の向こうに大島が見えたりするのだけれど、さらにそのはるか先の小笠原まで通信線がつながっていた時期があったのだという事実を知ってからは、海を見るたび旅の記憶とともに小笠原のことを思い返すようになった。

こうして140字小説とともにいくつか所縁のある戦前の海底ケーブルの歴史について記していった。もちろん情報としては断片的なものではあるのだけれど、4年前にはもっとあったネットの情報もいくつかサイトごと消えてしまっていたりしたので、記録としての意味もこめて残そうと思う。

そして上の140字小説は海底ケーブルとは直接の関係はないのだけれど、鎌倉で見た光景を題材のひとつとして書いたものだ。まったくの空想でももちろんよいし、このように自分と接点のある場所や歴史を題材にするのでも、なにかしらのかたちでちいさな物語を書いてみるのはたのしいことだと思う。気が向いたら皆さまもぜひ気軽に書いてもらえればうれしいです。


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