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境界に住まうということ(七里ヶ浜から茨城県北、そして故郷へ)

文章関連で懇意にさせていただいているひとたちでnoteをはじめることとなり、以前に個人サイトへ書いたものをいくつかをこちらへ移した。
(「読書随筆 雑誌『たたみかた創刊号・福島特集』」など))

長めのエッセイ的な文章をウェブに書くのは三年ぶりくらい、どうせなら上の記事を引き継ぐかたちではじめようと思う。

いま僕は茨城県北・高萩をはなれ、三歳から大学を出るまでの約二十年間を過ごした、すなわちふるさとといえる場所の隣町に住んでいる(実家そのものは売られてもうない)。

東京近郊の住宅地ではあるけれど二十数年前まえでは小高い丘の深い森だった土地で、そこが県境でもあった。その丘向こうに元実家があり、現在の居住地とは目と鼻の先に位置するけれど、それぞれ異なる行政区画に属している(さらに言えばもうひとつ別の自治体とも接する三つ叉の地だ)。

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つまり出自が境界の地にあるので、そういう場所へは無条件に惹かれた。物好きでこれまで二十五回ほど引越しをしているけれど、長野と群馬の境である軽井沢、あるいは山梨と長野の境である北杜などでの暮らしは思い出深い。

茨城県北もやはりそういった地域で、文字通り茨城の最北にあり、その上端の北茨城市は福島のいわきと接している。そして茨城県北へ転居する前に住んでいた鎌倉・七里ヶ浜も、やはり境界の場所であった。

七里ヶ浜は観光などで一度は訪れたことのあるひとも少なくないだろうけれど、湘南の一部としてのイメージが強く、境界といわれても意外に感じるかもしれない。けれどもそこはかつて鎌倉中《かまくらちゅう》と呼ばれる鶴岡八幡宮を中心とした七里の結界と腰越(鎌倉市の西隣である現藤沢市の海側東端の地名で、太宰治が二度目の自殺を図ったことでも知られる小動岬がある)との間の地であったとも言われる場所である。

これ自体は七里ヶ浜という名称の由来としていくつかある説のうちのひとつでしかないのだけれど、浜の東端の岬・稲村ヶ崎の北にある極楽寺の近辺が中世では行き場を失った者たちの集う谷であったらしいという歴史的経緯などを鑑みても、現在の行楽地としての佇まいとはまったく違う様相であったことは確かなのだろうと思う。

(ちなみに京都学派の創始者として知られる哲学者の西田幾多郎は稲村ヶ崎近くの姥ヶ谷という小さな谷戸で晩年を過ごし、死を迎えている。京都で長年を暮らした彼が終の地としたことも、七里ヶ浜を住む場所として選んだ理由のひとつだ)

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そんな七里ヶ浜の、部屋から海と江の島と富士山と江ノ電のみえる希少な賃貸物件(普通の家賃で四条件が揃うのは知る限り鎌倉で唯一の)を五年も空室待ちをして借りていた僕が茨城県北へ移り住んだのは、小笠原諸島への旅が縁となりたまたま訪れた北茨城の二ツ島の夕景(前回の記事の見出し画像として使っている)と音とが、ここで日々を送りたいと思うに足るうつくしさを持っていたのが大きな理由のひとつだった。そう、景色だけじゃなく、海の音がほんとうによかったんだよね。鎌倉のものとはまたぜんぜん違う。

転居後に知ったことだけれど、二ツ島のすぐ北にある五浦海岸は「日本の音風景100選」にも選ばれている。それだけでなく、五浦は日本の近代美術史を切り拓いた思想家・岡倉天心が活動の拠とした場所だ。そこには彼が思索のために自ら設計した六角堂という建築物があり、それは東日本大震災の津波で流された。そう、北茨城はあの地震で甚大な被害を受けた地でもあった(現在では六角堂は再建されているほか、当地には美術館など各種周遊施設もある)。

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さらに北茨城は詩人・童謡作詞家の野口雨情が生まれ育った場所でもあり、十四歳で旧制中学への進学のため上京するまでの日々をここで過ごした(二ツ島のすぐ南にある生家は公開されており、また近くに記念館もある)。これはただの戯れ言だけれど、彼の代表作のひとつである童謡『七つの子』はきっと北茨城・磯原での暮らしのなかで少年期にみた原風景がベースとなっていて、さまざまな解釈がなされている「七つ」は山に眠る亡き子烏の魂の数なのだと勝手に思い込んでいる。

そんなふうないろいろの要素がそろっていたから、鎌倉と同じかあるいはそれ以上に、きっと何かを考えながら日々を送ることにここは向いている場所なのではないかという予感を感じた。

その後もたまたま五年に一度の「常陸大津の御船祭」、そして茨城県北やいわきでの芸術祭の開催のタイミングと重なり、月に一度は足を運ぶようになった。そして初めての訪問から三ヶ月後には七里ヶ浜を離れ引越しすることを決めていた(さいわいなるべくの行動の自由を確保するためもあり僕は起業していて、思いつきの転居も仕事面での支障はそれほどなかった)。

ただ実際に居としたのは北茨城ではなく、その南隣の高萩という市だった。それは単によい物件と巡り会ったからというだけの理由だ。オーシャンビューの分譲賃貸マンションが、2LDKで月5万円。リビングはカウンターキッチン付きで内装も数年前にリフォーム済み。迷う理由は何もなかった(安いのは震災後の海沿いだからというのではなく、近辺の一般的な相場だ)。

眺望についてはもちろん七里ヶ浜も諦めるには惜しかったけれど、震災後に建て直されたまあたらしい防潮堤と、その向こうに朝日が昇る光景が部屋の窓の真正面に望める。江の島に陽が沈む夕暮れを見つづけた生活の次に移るとしたら、むしろここ以上にふさわしい場所はないのではとさえ思えた。

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さらに海の反対側にはわりあい近年に建てられたであろう装いの市営の団地群が立ち並んでいたのだけれど、その一角に昭和三十年代初頭に建てられ、すでに使われなくなった古い建物(旧高浜住宅)が何棟か解体されないまま廃墟のように残っていた。

そして遠くにみえる阿武隈山地の手前には、これもまた平成中期に自己破産し操業を停止した元・日本加工製紙の廃工場がみえ(特撮作品などのロケ地として使われ、のちに解体され巨大太陽光発電施設となった)、そのすぐ近くに現役のイオン(旧マイカルのサティだった店舗が転換した小規模なものだ)の看板ネオンがさみしく輝いていた。

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どう考えても思索するのに適している場所としか思えなかった。

実際、いわきの小名浜でさまざまな活動を行い『新復興論』などを著した小松理虔氏(冒頭で触れた雑誌『たたみかた』へも寄稿している)が、「当事者から共事者へ」という連載でまさしく僕が移り住んだあたりをスタート地点とした震災後の思索の記事を書かれている。
(小松さんとは先述のいわきの芸術祭で通りすがりに道案内をしていただいたのを端緒に何度かお会いしたことはあるけれど、居所地の詳細などをお話ししたことはなく、まったくの偶然でほんとうに驚いた。そしてうれしかった)

そうしてはじまった茨城県北での暮らしは、やはりとても実り多いものだった。個人的な事情から四つの季節を巡るだけの居住になってしまったけれど、いまでも何かを思考するときの糧となるような経験をたくさん重ねられた。

それらについてのいろいろは、またそのうちに記すことがあるかもしれない。けれどももうだいぶ長くなってしまったので、最後に境界の話だけ再びしてこの記事を終えようと思う。

茨城県北は、やはり境界の地だった。正確には北茨城の南隣である高萩は県境からはすこし離れていたけれど、たとえば北茨城の二ツ島までであれば車で十五分ほどでいける(そう、鎌倉では車を持たなかったけれどさすがに自転車だけでは厳しかったので、広いスカイルーフのついたホンダの中古車を買った)。福島のいわきまでも南端の勿来の海岸あたりであれば二十数分だ。

僕は内陸の高台より常磐線の鉄路をまたいで伸びる陸橋から二ツ島を横目に見つつ海沿いのロッコク(国道6号)へと降り、大津港から国道を離れ五浦海岸、平潟港、そして勿来の海へとつづくひなびた小道を通るルートがたいへん気に入り、よくお昼の休憩がてらひとり車を走らせた。そうしてひとしきり感慨にふけったあと、今度は国道の立派なトンネルを通って県境となっている丘陵の下をくぐり抜け、自宅へと戻り仕事を再開する。

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境界に住まうということは、みずからの精神をあいまいななかに保ちながら日々の暮らしを送ることができる効用があると思っている。いざとなればどちらへでもいくことができる自由。

もちろん均質化した日本の国内においては、県境を越えたからといってたとえば海外の国境のような明確な差異があるわけではない。話しことばだって自治体単位できっちりと方言が分かれるわけではなく、より小さな地域コミュニティごとのすこしずつのグラデーションの連なりをもって変化していくものだ。

だからあるいはそれは、ただの思い込みや勘違いに近いものなのかもしれない。けれども、たとえそうであったとしても、やはり僕はそういった状態を維持できる場所に生きることを好ましいと感じる。

そして境界の地は、すこしだけの幅広さがあるんだよね。たとえば車のナンバーは二種類だけを多く見かけたりとか(これはまあ、ほとんどのひとにとってはどうでもいいと感じる事柄だと思うけれど)。それでもたとえば東京、あるいはニューヨークなど人が過密するがゆえの大都市の多様性とはまた違う、地理的な要因に規定されたなかでの複数性の担保というものに僕はけっこう居心地のよさを感じてしまう。

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もちろんこういう不確かな状態を好むということは生き方や思想そのものにも反映されがちだし、それゆえあまり共感できないというひとも少なくはないのかもしれないと思う。けれどまあそれは人それぞれ、自分の生き方は自分でしか責任をもって全うできないからね。

そして境界とは、僕のように現実の社会制度としての県境の近隣に住むというだけでなく、さまざまな見えるもの、見えないものの上にも存在させることができるのだろうと思う。あるいは心のなかにも。

いまはそれが明確なかたちをもって人びと相互のさまざまなまじわりを分断するためのものとして身のまわりに存在してしまう世界になってしまったけれど、自己を制限させるためのものでなく、精神のありようを広げるためのものとして境界を見定め、ときにそれを越えたり戻ったりしながら僕は暮らしていこうと思う。

(本記事の直接のつづきはまた後日に、次回はおそらく「赤坂区青山南町の戸籍と旧海軍の奉職履歴について」的な記事を書くと思います)

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