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弟と、ふたり|大佐渡スカイライン<防衛道路>|巡る道、辿る道

旅先でなければ、大人になってから弟とふたりでドライブをするという機会は訪れなかっただろうと思う。

2017年の夏に僕は父の出身地である新潟の佐渡島を五日間ほど訪れた。直接のきっかけは鎌倉の友人から運営に携わる当地での人形浄瑠璃を見にこないかと誘いがあったことだけれど(とても素晴らしい公演だった)、偶然にいろいろのタイミングが重なり、同じ時期に佐渡へ滞在中だった弟と半日ほど一緒に出かけることになった。

どこへ行こうかと考えて、すでに島内の海外線外周を二日かけて一回りしてやや海の景色は食傷気味だったこともあり、天気もよいし山を見にいくのはどうかと弟に提案し了承をもらった。

このとき僕は茨城県北に住んでいて、佐渡では磐越自動車道を通って新潟発のフェリーで運んだ自分の車で移動していた。旧佐和田町の滞在先で待ち合わせ、弟にはその助手席へ座ってもらうと、僕たちは2004年の合併後の佐渡市における行政上の中心地区である旧金井町(父の出生地でもある)から大佐渡スカイラインに入る《地図A》。

この大佐渡スカイライン、一般には島内で最高峰の金北山(きんぽくさん)の裾を走る観光向けの展望道路として知られているけれど、実際にはもうひとつの役割が与えられている道でもある。

それはゆずろ公園《地図B》を少し過ぎたあたりのところで、意識をしていなくても唐突に気づかされることとなる。

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それまで灰色の一般的な平面アスファルト舗装だった道路が凹凸の施された真白いコンクリート舗装へと突然に変わり、そして物々しい看板があらわれる。

疑心暗鬼にかられつつさらに坂を上り幾度かカーブを曲がっていくと、ようやくその景観変化の理由を理解することができる。

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トキの壁画が描かれる横には「佐渡分屯基地」と記され、自衛官募集の垂れ幕が下がっている。そう、ここには航空自衛隊・中部航空方面隊隷下の基地が設置されており《地図C》、それが故に大佐渡スカイラインの一部区間は市や県ではなく防衛省が管理する道路となっているのだ。

防衛道路とも呼ばれるこの区間、凹凸の施された真白いコンクリート舗装はただの滑り止めというだけでなく、戦車が通行できる強度を保つものであるという。

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基地の向かいには市営の平スキー場がある。凹凸のコンクリート舗装はこの先もしばらく続く。

この佐渡分屯基地は戦後に進駐したアメリカ空軍が対ソ用に展開し、後に移管されたもの。現在でも基地のさらに上方の妙見山(金北山の西隣)山頂にレーダーサイトが設置されており、ちょうど僕がここを訪れた四週間後に初めて国民保護サイレンが吹鳴されたJアラート発動の端緒となるミサイル発射はここで探知されたらしい。大佐渡スカイラインは基地からレーダーサイト手前までもこの防衛道路と区間を共用している。

車窓の前方に山肌から突き出る野太い塔のようなレーダー装置の先端部分が見えてくると、そこで道は二手に分かれる。凹凸コンクリート舗装の伸びる直進路はゲートによって遮られており、一般車両が進める左手の道路はここから再び通常のアスファルト舗装されたものへと戻る。そしてその分岐点には「交流センター 白雲台」と呼ばれる山小屋風の物産販売施設がある《地図D》。

ここの駐車場で車を停めると僕と弟は併設されている展望デッキへとまず向かった。実はあらかじめ届出をしておくとレーダーサイトの敷地内に入って金北山山頂(かつてはここにレーダーサイトがあった)まで歩くこともできるらしく、ひとりであれば確実に僕はそれを行っていたと思うけれど、このときは思いつきの弟とのふたりドライブ。主目的を脱してはいけないよねということでおとなしく島を東西に一望できるその景観をたのしむことにしたのだ。

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「エ」の字形に似る佐渡島の東の窪み、両津湾(手前には加茂湖)。

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そして西の窪み、真野湾。

弟は知的障害を持っているけれど、うつくしい景色をうつくしいと感じる気持ちはとても明確に捉えることができるから、感嘆の声をあげる。その姿をみてなつかしいし、嬉しいなと思って僕は胸がいっぱいになった。その前年まで、僕は彼たちと六年ちかく会っていなかったから。

眺望をたのしんだ後は店内でお土産を買って(たしか弟のセレクトで佐渡名産のル・レクチェのジャムかバターかだったように思う)、それから車に乗りこんだ。佐渡金山跡などがある西の旧相川町(真野湾側)へ抜けて帰路へつくことにしたのだけれど、その途中でいきなり深い霧が立ちこめ、そして豪雨が降りだした。佐渡の山地は最高峰の金北山で標高1,171メートルとそこまでの高さではないけれど、気候の急変が多くみられることは内地の山々と変わらない。

運転もおぼつかなくなるほどの視界の悪さで僕自身はたいへん難儀したのだけれど、その道中の弟は車内から天井のガラスルーフ越しにみえるはげしい雨粒をとても愉快な様子で眺めていた。僕の車は当時震度5〜6弱の地震が頻発していた茨城県北でなにがあってもよいようにと車内泊に適して選んだホンダのスパイクで、中古で買ったそれはガラスルーフ付きのものでそれを僕はとても気に入っていた。弟も好んでくれてよかった。

なんとか麓まで辿りつくと、佐和田まで戻って弟と別れた。そしてもともとの予定どおり、その日の夕方ごろに東の両津港を発つフェリーに乗って僕は新潟から茨城へと帰った。

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そしてそれから四年ちかくがたった。あのころの僕は茨城に根を下ろすか、あるいはしばらくしてまたどこか遠くの縁のない街をさまよい歩いているか、そのどちらかだろうなと近い未来をぼんやり想像していたけれど、思いがけない成りゆきでいまは茨城を離れ、育ちの故郷の隣町に住んでいる。

弟とも時おり顔を合わせるようになったけれど、コロナ禍とそれにまつわるいくつかの環境要因により、昨年の正月に会ったのを最後にまた一緒の空間にいることが難しい状況となってしまった。

けれども、いまも僕はあのときと同じ、ガラスルーフが天窓としてある車に乗りつづけている。昨今はガラスルーフをつけられる車種がどんどん無くなってきているし、自身でやっている会社事業が例に漏れず極めて厳しい状況であることもあり、おそらく乗りつぶすまでは手放さないことになるかもしれない。

そうであるのなら、弟とふたりドライブしてガラス越しの空をみることもまたあるかもしれないよね。と思いながら今日は佐渡の事業者のひととの取引をひとつ終えた。

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