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斜めにしか進めない|京都・後院通|巡る道、辿る道

これまで国内外で二十五回ほど引越しをしている。もちろん九十三回の転居歴をもつ偉大なる葛飾北斎先生の例を挙げるまでもなく上には上がいるだろうし、鎌倉での七回など同一市内での移動の数も含んでいるから実際はたいしたことはない。とはいえ旅での逗留も含めて、ある程度の長さの期間を過ごした街というのはそれなりにある。

僕は歩くことがかなり好きなタイプの人間だ。だからだろう、各々の街の記憶を思いかえすときに「道」がその媒介となることが多い。それらさまざまの道について巡るように辿るように、思いつくまま時おり綴っていこうかなと考えている。
(ちなみに北斎先生の九十三回という転居歴はたしかにすごいのだけれど、七十五歳の時点では半分強程度の回数だったと聞く。まだ張り合うチャンスは残っているのかもしれない)

さて、今回は京都について。僕は二〇一二年の晩冬から春に移ろう三ヶ月弱を京都市中京区にある後院通と呼ばれる道の脇で過ごした。

二条駅(JR嵯峨野線・地下鉄東西線)の少し南にある千本三条交差点から、大宮駅(阪急京都線)・四条大宮駅(嵐電)そばの四条大宮交差点までを結ぶこの街路は、碁盤の目が基本の京都中心部にある通りとしてはとても珍しい特徴を持っている。

〝斜めに走る〟

なぜそうなっているのかといえば、この後院通が一九一二年に京都市電の千本大宮線の敷設にあわせて作られたもの、すなわち永劫の歴史を持つ京都のなかでみればごく最近に出現した道路であるからだ。

市電は一九七〇年代に全廃され今ではその面影はわずかにしか見られないようだけれど、たとえばこの通り沿いには当時の架線柱が現役の電柱としていくつか残存している。
(ちなみに新旧の路面電車付近の電柱というのは面白いものが多くて、かつて鎌倉・七里ガ浜の江ノ電併用軌道沿いに住んでいた頃は、自宅前の架線柱が電柱を兼ねていて特殊な形状のものがたくさん見られた)

僕がその後院通に面した部屋を借りることになったのはまったくの成り行きで、朱雀という平安の名残をとどめる言葉の入る町名がいけてるからという理由で物件候補のなかからたまたま選んだだけのことだった。札幌からの転居だったので事前に内見をすることもなく、移り住んでからはじめてそこが斜めに走る通りに面していることを知った。そして僕はああ、やはり斜めは落ち着くなと感じた。

そう、斜めだと落ち着くのだ。

僕は生まれも育ちも坂の中、といっても言い過ぎではないくらい、斜面に接した場所に住みつづけている。引越しばかりしているけれど、それでもおそらく人生の八割以上の時間を坂とともに暮らしている。

京都へ移る前の一年ほどを過ごした札幌はとてもよい街で、それこそまたいつか戻ることもあるかもしれないと思っているくらいには気に入っている土地なのだけれど、ひとつだけ心許なさを感じることがあった。それはどこもかしこも平らかでまっすぐすぎるということ。

もちろん札幌全体で斜めの道がまったくないというわけではないし、周辺には山地もある。けれども部屋を借りていた建物が街の中心を貫く大通に面していたこともあり、どうしてもその感覚を拭うことはできなかった。その点に関しては京都も碁盤の目の街なので当然同じであろうと想像していたところ、たまたま(坂ではないにしろ)斜めの道沿いであったことから、自分がいかにそこへ安心感を覚える人間であったのかを痛感することになったのだ。

後院通の中ほどにはかつて広大な市電(後に市バス)の車庫があり、そこに市交通局の本庁舎まで置かれていたというのだけれど、現在は移転・縮小して小規模のバス操車場のみが残っている。そしてその跡地には旧公団の団地と、ちょうど僕がいた二〇一二年春に新しく開署した中京警察署が建てられている。

その時分の僕は逃避行をする隠者のような心持ちで日々を過ごしていたときだったから、実際になにか逮捕をされるような罪を犯したわけではないけれど、指名手配犯が何食わぬ顔で素通りするようなおかしみを感じながら外出するたび警察署の前を歩いた。そしてこう思ったのだ。

〝たぶん僕は結局、この道と同じような立ち位置で社会と関わりながらずっと生きていくしかないのかもしれない〟

東西南北に規則正しく整列された道の張り巡らされた由緒ある京都の町中で、例外的に斜めに進む通り沿いにまったくの偶然で住むことになり、そこに幾ばくかの安寧を感じる。そしてその斜めの通りにはこれもたまたまの経緯で法執行機関である警察署が作られることとなり、その建物を端から見上げながらも直接に関わることはなく毎日を暮らしていく。

極めてぼんやりとした抽象思考だけれど、京都での短い生活のなかでわりと確かな手触りで僕はそれを感じとることになった。斜めに走る後院通に住むという日々の時間の繰り返しが、その思考をもたらす要素となったということなのだろう。

さてその後院通、北西端である千本三条交差点は東西に走る三条通のアーケード商店街における西の始点でもある。三条通は京都市発足前の明治前期には上京区・下京区の境界となっていた道で、新旧さまざまのお店で賑わっている。そしてその交差点脇にはたいへんおいしい肉屋がある。

京都へ越してきた当日に、ああこの道、斜めなんだなと思いながら南東端の阪急・大宮駅から北西端まで警察署を通り過ぎたりしながらとぼとぼ歩き、その肉屋の弁当をテイクアウトした。そして借りた部屋に移動し荷物を置く。すると窓からは近くにある立命館大学の校舎と青空が見えた。

その景色をぼうっと眺めながら、ただもくもくと肉を掻き込んだ昼下がりのことを、いまでも斜めに進む道を見かけると思いだすことがある。

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