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【正義】他人を「自分が幸せになるための手段」として利用していいのか?

まず結論からいうと、「他人を手段や道具として利用してはいけません」と哲学者のイマヌエル・カントは言っています。

カントの哲学は難解と言われています。しかし、カントの革新的な哲学は、哲学に関する知識がなくて頭が真っ白な状態だと意外とすんなり頭に入ってくると思います。とはいえ、カントの哲学は内容が濃くてずっと難しい文章が続くので匙を投げたくなるのです。そこで「他人を手段や道具として利用してはいけません。」とカントが言う理由にのみ焦点を当ててお話します。

さてまず他人を手段や道具として捉えているとはどういうことでしょうか。

「課長に媚を売る」
 → 課長=昇進の道具
「体目的で女性を口説く」
 → 女性=性欲を解消する道具
「見返りを求めて友人の相談に乗る」
 → 友人=何かしらの利益を得る道具

そのほかにも「ストレス発散のために他人に八つ当たりする」「安定した生活や周囲からの承認を得るために結婚する」「経済的利益や名声のため戦争行為を行う」
他人を何かしらの手段や道具とする行動原理は枚挙にいとまがありません。

では人を利用するという行動原理が良くないと言われるのはなぜでしょうか?

周囲に対する悪影響と自分自身に対する悪影響のふたつがあるためです。
まず周囲に対する悪影響はみなさん実生活でよく見かける通りです。個人的な欲求を追求するあまり、騙し貶め罵り合い、搾取したり搾取されたり、その結果人間関係をぐしゃぐしゃにして、最悪戦争したりするわけです。他人を「自分が幸せになるための手段」として利用すれば社会が不安定になる場合がどうやら多そうです。

では自分自身に対する悪影響とは何でしょうか?

実はこれが、今回の最重要ポイントです。他人を自分の欲求を満たすための手段と捉えている人は、感情の奴隷なのです。不自由なのです。なぜなら自らの行動によって期待される利益は、最終的に他者の行動の範疇であるため、確実に得られるものではないからです。
最近若い人たちがSNS疲れしてきた結果常識になりつつある価値観の一例に下記のようなものがあります。

「諸悪の根源は承認欲求だ」
「いいねの数も再生数のような承認欲求を満たす要素も自分では制御範囲外で、最終的には他人の行為である」
「自分の幸せを他人の行為に握られてたまるか」

ここから派生して自己肯定感という言葉が流行ったり「やりたいことを仕事にする」という風潮の一因になっていると思うのです。
話は脱線しましたが、とにかく自分次第ではコントロールできない事柄を自分の喜怒哀楽に結びつけて一喜一憂したり、行動を制限することは精神的に不自由な感情の奴隷であると、カントはバッサリ切り捨てるでしょう。「どうすれば上司に気に入られて昇進・昇級できるか」「どうすれば好きな子の恋人になれるか」は完璧にコントロールできるものではありません。なぜなら最終的には相手が決めるものだからです。「水場に馬を連れて行くことはできるが、水を飲ませることができない」という名言の通り、私次第でどうにかできるものとどうにもできないものを区別しなければ、精神的には不自由になるのです。

逆に、精神的な自由とは、どのように確立できるのでしょうか?

先ほどの他人次第であるものに一喜一憂して行動原理を変える性格のことを「他律」と言います。反対は自らを律する「自律」です。そして自律こそが精神的な自由を獲得できるのです。
え?それって精神的に自由なの?律するっていうことはストイックに制限することなんじゃないの?
ごもっともです。律するということは、何が良くて何がダメというルールを自分に課すということです。そしてそのルールを自分で決めて自分で勝手に課したということは…逆説的ですが義務と自由が両立された不思議な状況なのです。
とはいえ自分ルールはもちろん何でもいいわけではなく、文脈上、他律の逆ではなければなりません。

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自分ルールとはどのように決めたらいいのでしょうか?

他律的な人にとって重要なことは、欲求を満たせるかどうかであり、Aという条件ならBするという仮言命法を行動の原理としています。
その反対を考えたら良いのです。自律的な人の、行動原理は自らが設定した道徳法則に無条件に従うということになります。これを定言命法と言います。普遍的に絶対に正しいことを考え行動することが、自らの精神的な自由を実現し、他人や社会に対しても正しく振る舞うことができる、これがカント的な正義と言えるでしょう。だから「他人を手段や道具として利用してはいけません」と言えるのです。これは正義を行使するためでもあり、自分の精神的な自由を実現するための戒めでもあるのだと私は思います。

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最後に…

困ってる人がいたら無条件に助けましょう。迷ったら理性に従いましょう。自分が不当な扱いを受けた時、道徳的な正義はどこにあるのか明確にして、自分が間違っていなければ堂々としましょう。それだけで人生は光り輝くと思うのです。

私は今、人を助ける能力を獲得することのみに集中しています。会社から出たら非力な営業事務職を辞めて、たまに連絡をくれる知人やまだ見知らぬ人のために。みなさまが正義を行使して、精神的な自由を獲得して感謝の渦に巻き込まれていくことを祈っております。

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