何を、どこに訴えようとしているのでしょうか? 2021 広島市広島中等教育学校 ー 2003年東大の円周率問題を想起させてくれる ー

広島のしかも中学入試だからそこまで話題になっていないのかもしれません。しかし、公立の中学入試問題でこういう文章扱うのは興味深いと感じました。もっというと結構、個人的には文章の選択は衝撃です。だから採り上げてみます。
 
2020年4月4日朝日新聞 朝刊の記事からの出題です。

日本の義務教育における国語教育は、筆者が言いたいことを汲み取る、いわば「他人に寄り添う」力を問うてきた

とまずあります。一方で、今の世の中で求められている力は、その上で「サービス」や「商品」、さらに言えば「ビジネス」を生み出せる人です。
 
 日本人は、察するのがうまい、行間を読むのがうまい、空気を読むのが上手、とどこかで聞いたり、読んだりすることはないでしょうか。
それは義務教育の中で「他人に寄り添う」力を問うてきただけではなく、親たち子供に当たり前のように「相手のことを考えるように」と教えてきたからです。そして、その「成果」として、今まで海外から賞賛されたり、驚かれたりするいろんな商品やサービスが生み出されてきました。
(海外から、「ユニーク」や「クール」と言った称賛の声を聞いたことがあるのではないでしょうか。もしくは、「日本は独特の文化を持った国だ」とか)
では、なぜニュースなどでこの点に関して、ネガティブな意見が多く取り上げられるのでしょうか。1つは、言葉の「定義」の問題があると考えています。
実際にここでは、
「読解力」:日本においては、書き手の意図を読み取る力(まで)
「リーディングリテラシー」:読み取った上で自由に自分の意見を述べ、
              次の行動に結び付けること
 
と紹介されています。
明らかに上記の「読解力」と「リーディングリテラシー」の定義には大きな違いがあります。定義が違うということは、指導も異なっているということです。つまり、教えられてもいないし、教えることも求められていないので、当たり前ですがそれを子供達が出来るわけはありません。
 余談になりますが、他には、ビジネスの世界でよく言われる「イノベーション」もそうです。では、「イノベーション」って一体何でしょうか?(ここはまた、別の機会に深掘りしてみたいと思います。)

インプットに量は必要か

「量」と「質」の話は、よく言われる話ですね。私自身の考え方は、ある程度の練習量(勉強量)は、必要だという考えです。そうすれば見えてくるものがあるからです。ここでは、日本語の「型」、文章の「型」の話が例で採り上げられています。もっと言えば、論文は「型」が決まっています。だからその「型」を身に付けることが重要で、それができさえすれば、書くことは、少なくとも内容以外の点で筆が進まなくなることはありません。
繰り返しになりますが、子供一人一人にある一定以上のインプットの量は必要だということではないかと考えています。(子供だけじゃありません。新しいことに取り組もうとする人は誰でもです)

実際に<B>の最後に、

「インプットが増えていけば、ある程度応用も利くようになっていくと思います。」

とあります。これ以後は、「後略」とされているのに、この一文を残したことに、意図を感じます。

問3(作文)とそこから読み取れる「メッセージ」とは?


問3として、「表現力」を伸ばすためにできる学校の取り組みを350〜400字で書くことが求められています。
「表現力」を「自由に自分の意見を述べ、次の行動に結び付ける」ことと
<A>で紹介されています。これをまず踏まえておく必要があります。
(<A>の最後に、「定義」の重要性の話までに及んでいることも個人的には興味深い点です)

このように、
 
自分の「表現力」を伸ばすために、合格したらあなたは何を意識しますか
 
と問うているのは興味深いですね。これは当日受けた受験生だけではなく、受けようとしてくれている「未来の」受験生とその保護者へのメッセージだと考えるのは、考え過ぎでしょうか。
 
#2021公立中高一貫校
#広島市広島中等教育学校

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?