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水源⑧


7話は【こちら

(呼吸をする度に,まだ僕の命が消えないことがわかる.いつになったら君のところに行けるんだろうってずうっと考えている.日々が過ぎ去るのが怖いんだ.毎日君との記憶が消えていって,君のことを忘れてしまおうとしている僕がいることに気付く.僕が死んで君のところに行ったとき,君のことを見つけることが果たしてできるんだろうか.)

......

遠くに電車の音が聞こえる.例えば,今すぐこの世界から消えてしまっても,誰にも知られずに終わる人がこの世の中には大勢いる.僕もその一人だ.そして君もその一人だった.何かが終わることで何かが始まると聞くけれど,君の命が終わったことで始まる知らない何かなんて知りたくもなかったな.電車は通り過ぎていった.今も死にたい人がいる中で生きていたかった人もいて,どうもうまくは行かないものだな.僕はどっちに当たるんだろう.そんなことを考えていた.

もう行く必要のない道を,何故か今日は歩いている.商店街はいつもと同じように活気に溢れていた.もう何も買わなくなってしまったけれど.一人でいることは結構辛いことも多く,この意味のない雑踏が,心の拠り所であることは事実だった.

「人が多いな」

当たり前だ,そこには僕以外の人が当然のように住んでいるわけで,いつの間に自分ひとりの世界だと勘違いしていたんだろう.時間はすべての人に平等に流れていて,最初から自分が感知できる狭い範囲を越えた場所は他人事.アフリカとかの話はもはや別世界の話だ.学校で一緒のクラスの隣の席だった人も,家へ帰ったあとはもうわからない人.そうやって,自分の境界を広げたり狭めたりしている.僕は知らない間に一人になってしまっていたから,家に帰ると,境界はものすごく狭くなる.仕方ないよ.僕はこの世界にたった一人なんだから.そう思ってしまっても誰も怒らないでしょ.怒らないでよ.

スマホを片手に走る人,男女で仲良く歩くカップル,家族連れ,何かに怒鳴っている人,何かを売る人,買う人,泣いている人もいる.笑っている人もいる.たくさんいる.ここはとても感情がある.感情のこぼれた先には何があるんだろう.手を伸ばしかけて,やっぱりやめた.オズの魔法使いでは,ブリキの木こりが心を欲しがったけれど,ちょうどこんな感じだったんだろうか.ただ,彼は心を求めたけれど,僕は捨ててしまったから少し違う.こぼれた感情を拾い集めても, 僕の感情ではない時点で意味はないのだから.

その人混みには,僕の姿ももちろん含まれている.僕はいつもの通りフラフラと,人にぶつかりそうになりながら歩いている.たまにぶつかってしまう.

「すみませ」

言いかけたときには,ぶつかった人に舌打ちをされながら人混みに帰っていった.ダメダメだ.知っていたけれど.

少し前を見て歩こう.目線をふと上げてみると,商店街の先,出口の方にこの社会には似合わない,見慣れない白い服を見かけた.ここ数ヶ月では見たことのないそれは僕の方を見てゆっくり微笑み,前に振り返るとさっと人混みに紛れて見えなくなった.

「え.」

僕は自分でも驚くほどの速さで走り出していた.僕はそれを知っていた.あの光の加減で青く見える髪の毛,風が吹いて揺れるたなびき方,あの瞳,微笑む時の口角,目尻,腕を少し後ろにして組むところ.全部一番近くで見てきていたものだった.忘れていた記憶が溢れ出す.古いフィルムが早送りで流れていく.もう躊躇はしてられない.「僕は忘れてなかった!忘れたことなんてなかったんだ!一度も!」

沢山の人にぶつかり,文句を言われながらも,無我夢中に追いかけた.息をするのも忘れるくらい走った.信号なんて見えなかったし,自転車にはぶつかりそうになって怒鳴られたような気がしたけれど,聞こえなかった.謝罪なんて全てが終わったあとにいくらでもするから,今はちょっと許してくれ.

どれくらい走っただろうか.僕の着ていたシャツは色が変わりきっていて,口の中は鉄の味がする.

「ここは......」

それは町外れの海岸だった.よく来ていたな,そういえば.雑踏から遠ざかったからか,今は自分の心臓の音と,波のさざめきの音だけがする.そして君がいた.

「どうして行ってしまったの.」

僕の口は知らない間に動いていた.

「それは仕方のないこと.運命っていうものなんだと思う.君,私を忘れていたでしょ.」

すぐ僕をからかうのは,いつもの君だな,なんて思ってしまった.

「いや,忘れたことはないよ.少し靄がかかってしまっていただけさ.さあ帰ろう.伝えたいことや話したいことが山程あるんだ.君とずっと一緒にいたいんだ.離れたくないよ.全部悪い夢だ.」

「それはできないの.もう君は私に触れることもできないの.私も君に触れられないように.思い出して.もう私達はさよならなの.私は海に還るの.『死んだら海に還ろう』.私はね,雨になって君の元に還るから.少しだけ待っていて.」

「あれは比喩だよ.君の形をしていなければ,雨は雨で僕は君を知覚することすらできないよ.還るなんて言わないで......」

僕は必死に口を動かした.どうにかして君をこの世界に留めて置きたかった.ただ透明な瞳を見つめた瞬間, 僕はもう何も言えなかった.



少し時間があいて,静かに君は口を開いた.

「運命ってものがあってね.私が君と出会えたこと,離れなければならないこと,全部その大きな流れの一つだって考えたことがあったの.何もかも決められたことで,私が死んだことも,君が一人で残らなければいけないことも全部.でも,私は自分の意志であなたと時間を共にすることを選んだ.それは私の決めたこと.私は幸せだった.だから大丈夫.泣かないでくれてありがとう.もう私は君の知らないところで沢山泣いたの.だから次は君の番.私のことは覚えていても良いし,忘れてもいいの.覚えようとしてくれて嬉しかった.本当に嬉しかった.だからこれは呪いじゃないよ,ほんの少しの祈り.たった一人,私がする,君のための祈り.」

そう言った君は泣いていた.綺麗だって思ってしまった.

「くそ」

僕は砂浜に思い切り腕を振り下ろした.何度も何度も,

「なんでなんだ」

そのまま気を失った.

......

夕暮れ時まで僕は海岸に座って水平線を眺めていた.確かに君を追いかけて,僕は気づいたらここに居た.海に反射した僕の顔は,目の周りが涙で赤くなっていた.泣いていたらしい.

「君の祈りのおかげだな.」

黄昏,靄の先に誰かがいたような気がしたけれど,もう目を凝らして見ることはなかった.君の悲しみも辛さもわかることはこれからもきっとないだろう.それでも知りたいと手を伸ばし続けるのは,愚かなことなんだろうか.僕には未だにわからない.


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